教師として赴任する時、父親が「いいか、先生とは『先に生まれただけだからな、先に生まれると書くだろう。だから、それだけを心してなれ』と言うのでした。

 

 「なるほど」と思ったら、その先がありました。「先生と言う字は、中国では手紙の名前の下に書く字では、一番下の位だ。その上は大人と書いてタイジンと言う。更に上は司令官と書いてスウリンカンと言い、俺は司令官だった」と言うのです。

 

 何だ自慢したかっただけかとも思いましたが、先に生まれたということだけが事実であることは間違いないと思いました。

 ※この時、既に人間性で親父を越えたと秘かに思っていました。

 

 以来、児童生徒より上だとは全く思わず教育に取り組んできました。「ふと、俺は教師なのだ、俺は校長なのだ」とは思いましたが、普段は意識したことはありません。よく「ありのまま」と言いますが、正にありのままで接してきました。

 

 並の人間としては、できないことや知らないことは多々あります。それを隠す必要はありません。

 

 理科専科をしている時、6年生の女子児童が「先生、チュウリップの花は、花弁じゃないことを知っている?」「知らねぇ」「あれはガクが発達したものなんだよ」「そんなことを知らないで理科の教師をしていていいの?」「何でも知っていれば、理科の教師なんか遣っちゃいないよ。学者になっているよ」と応えると子供は優越感に浸れます。

 

 鼓笛の練習をしているところに行って「ちょっとラッパを貸して見ろ」と言って、音が出ないことを示すと子供は優越感に浸れます。

 

 1つや2つ、いや3つも4つと、知らなくても絶対にバカにされることはありません。全部できない、知らないでは、絶対にバカにされますが、子供と比べて大人が全部引けを取ることはありません。

 

 だから、できないことは進んで見せました。小3の担任では,縄跳びの2重廻しが1回しか出来ないことを見せます。多くの児童が「先生よりできる」と思って自信になるはずです。

 

 親父は常に「俺の方が上だ」と言い続けました。心の中で「息子と張り合ってバカじゃねぇの」と思い続けました。

 

 最後に小学校の3年生を担任して、給食で1人1人の顔を見ていて、「俺より、子供の方が、2点において人間として立派である」としみじみと思いました。

 1点が「汚れがないこと」で、もう1点が「悪知恵がない」という2点てした。ただ、現実の社会を生きていく上では、この2点が、むしろ重要なのです。不登校の子供には、この2点が通常より欠けているのです。