中学で理科を担当していた時、夏休みを前にして各教科の休み中の課題が一覧表になって配られるのを知った。「参ったなぁ」と思った。初めての中学で学年で1番若かった。「理科は無し」とは書きずらかった。そこで、お決まりの「自由研究」と書く。

 

 後は、各クラスでの口頭による補足説明だ。「理科の自由研究は、やる、やらないからの自由である」と言った瞬間、生徒の目が輝いた。それでも200人中、5人くらいは真面目にやってくる生徒がいた。

 

 この5人の生徒のお陰で助かった。休み後に「理科研究発表会」というのがあって、発表がゼロというのも気になったからだ。

 

 夏休み直後の実力テストをしようという意見は極力潰した。休み後にテストをするなんていうのは卑怯だと思っていたからだ。そんなに勉強させたかったら休みにしなければいいのだ。

 

 休みというのは、それをどのように使うかは休んでいる人間の自由なのだ。休みにしておいて休ませないで勉強させようとするのは姑息でしかない。そんなやり方が功を奏するはずがないのだ。

 

 そもそも教師なんて大して勉強をしなかったから、教育学部に入学しているのだ。それを「中学生の毎日の家庭学習は、学年+1時間」などとふざけたことを言うのだから話にならない。テメエができもしないことを他人に押し付けるのは最低である。

 

 中学生には【「学年+1時間」なんて言うのは嘘だ。俺が中3で毎日4時間勉強していたら、ここに立っていない。何故だか分かるか、東大か医学部に行っていて教師にはなっていないからだ。人間なんていうものは、5分のことでも毎日続けるのは難しいのだ。俺が毎日5分縄跳びをしていたら、もっと締まった身体になっている。それができないからこういう状態なのだ】と話していた。

 

 思春期以降の子供には、納得のいく話をすることが大事である。本当のことを話してやれば良い。自分を偉そうに見せるのは逆効果である。親父に、「俺は、こんなにできた」という話ばかり聞かされて、何のプラスにもならず、むしろ反発の材料にしかならなかったという経験が活きた。

 

 倅が高校に入学した時、「俺は、高1の1学期の成績がクラスで50人中48番だった。今では、1番は取れても、この成績は絶対に取れない」と話していた。気楽にすることが意欲を向上させるということを知っていた。だから、自慢したことは無いが、出来なかった自慢はした。

 

 そんなことばかりで英語が一番苦手だと話していた。ホビイという単語の意味を言ったら、次男に「お父さん、英語を知っているんだ」と言われ、この時だけは「6年間も英語をやれば、単語の1つくらいは知っているんだよ」と言い訳をした。

 

 3人の倅が全員が筆者より成績は良かった。「勉強しろ」と言ったこともない。

 

 宿題は、「嫌ならしていかなくてもいいと言っていた。もし、していかないで先生に怒られたら、やろうとしたら親父に殴られるのでできなかったと言えば良い」と言い訳まで教えていた。

 

 「嫌なら、していかなければ」という方が、やる気になるものであるが、心底から宿題は必要ないと考えていたので、本気で「やらなくていい」と言っていた。

 

 自分の体験が大本になっている。宿題では苦しめられただけで、学力向上には全く関係がなかったからだ。「漢字を1行ずつ書いてこい」という宿題は、木辺を下まで書いてという風に早く消化させることだけを考えたものだ。覚えるつもりがないのだから漢字を覚える訳がない。 

 

 教師になってからも、機会がある度に宿題の効果をインタビューして、「効果があった」と回答した人は1人もいなかった。

 

 余計な事ばかりしていると忙しくもなる。筆者は授業以外ほとんどしなかったので、全然忙しくなかった。今やっても同じだと考えている。宿題を出せば、それを見るのが教師の義務である。それが嫌なら宿題を出さなければ良い。親に〇つけさせるなんて、とんでもないことである。

 「宿題を出して下さい」なんて言う親のいうことを聞き入れたことは一度もなかった。宿題が出なければ勉強しないと思い込んでいる親は何も分かっていないから、言いなりになるとロクなことはない。

 

 教育は子供に還元されるかどうかで、親の想いを満足させる必要はない。