ひろゆき氏は現在の日本の学校や会社について「無能な教師は、管理が楽なので真面目で従順な生徒を好みます。無能な上司は、管理能力が無いので、真面目で言いなりになる部下を好みます」と指摘。
あくまで教師や会社の上司が扱いやすい人間を好み、その結果として真面目な人間を重宝しているという見解だ。
その上で「社会的成功に必要なのは、結果を出す事です。真面目な事ではありません。死ぬまで誰かの下で働くなら真面目だけでも良いかもです」としている。
さらに、動画も貼付し「社会でうまく行くのは頭の良さとか関係ない。要領の良さの方が大事。みんなそれを追究しないから苦労する。『真面目に頑張ると報われる』という間違いを先生に言われて、みんな信じ切っていて、それで苦労する」などと持論を展開している。
そもそも、校則は無能の始まりかも知れません。無能だから、校則をよりどころにしないと指導?できないのでしょう。本来は法律があれば十分なはずです。筆者はそう思ってやって来ました。規制は法律ですれば良いのです。校則でするものではありません。校則は強いて言えば指導事項と言うもので、「こうあるとより良い」程度のもので遵守事項ではありません。他人を拘束するものではないのです。
4年生以上の子供に対しては「納得」が大事です。論理的思考力が大人並みになるため、大人の言動の矛盾に察知するため、それに対しての自己主張をします。これはある意味では従順でない子供ほどするかも知れません。
その自己主張に対して大人は「反抗するな」「屁理屈を言うな」と言って聞く耳を持ちません。筆者も良く父親から言われました。でも、未だに「俺の方が正しかった」という思いは消えません。
自分が親として教師として子供に対して反抗の種を蒔かない限り、反抗されないと考えて実行したら反抗されませんでした。1人の息子は、ややヤンチャだったので3年間近く口を利かない時期がありました。昔から「触らぬ神にたたりなし」と言われています。しかし、法律に触れることをしたら許す気は全くありませんでした。茶髪は法律に触れません。服装や髪形は趣味の問題です。
長男が中3の時、夏休みに茶髪になりました。単なる1生徒であれば好きにさせようと思っていましたが、生徒会長であったので、親として手を入れなければと考えて「茶髪になっているけれど、2学期の始まるまでに元に戻せや、それができなければ高校入試も茶髪のままでやれ、直前で元に戻すようなマネだけはしてもらいたくない。一番見たくない。入試までやり通すようなら根性があると、むしろ尊敬する」と話しました。内心はハラハラものでしたが、戻してくれたのでホッとしました。指導にはリスクも必要です。
校則を「髪の毛染めない」「パーマをかけない」「中学生らしさ」という3つにして中学で生徒指導主事をしている時、筆者のクラスの3名(この時、面倒だから学年のヤンチャを集めて担任していた)が、夏休み明けに茶髪にして登校してきました。「まいったなぁ」と思いました。個人的にはどうでも良かったのですが、校則を3つに減らしたのは自分なので、それを守らせないのはマズいと考えて、3人の1人1人と息子にした指導と同じことをしました。3人とも1ケ月以内に元に戻りました。※本当は、校則をゼロにしたかったのですが、とてもゼロでは会議で通らないと考えて3つにしました。数人の有力な中堅教師の味方があったため実現できました。「中学生らしさとはどういうことなのですか」と尋ねてくる保護者には「それをお子さんと一緒に考えて下さい」と話していました。中学生に押しつけは逆効果です。
校則を外して、荒れた中学にならなかったのです。理由は簡単で押しつけの注意・叱責(いじめ)が減ったから、自然と生徒が落ち着いたのです。
頭が良いと真っ当なことをすることができますが、社会は決して真っ当ではありません。教育的力量がなくても出世はできます。むしろ、そちらの方が多いかも知れません。
ひろゆき氏と少し違うのは、真の要領の良さはアホにはできません。子供の成長に関係のないことを排除するのはアホには無理です。これを的確に捉えてやっていくと楽ができます。ただし、出世はどうかな?
教師の力量があれば、「今度の6年生は担任したくない」なんていう意見は出てこないはずなのです。そう言うクラスこそ面白いのです。5年生で学級崩壊をしたクラスを担任した時は面白かっです。小学校であれば5・6年生、中学であれば2・3年生の担任が面白いです。中学1年生は6年生より素直なのでつまらないのです。
少しは緊張感がある方が、やりがいがあるというものです。素直で言いなりでは、ロボットでしかありません。人間を育てたいのです。
イエスマンを育てるつもりはなかったので、命に関わること、物を盗むこと、物を壊すこと以外は、基本的に子供の自由です。