いつの時代も、それがどのように社会的な扱いを受けたかは別として、「民意」はありました。政治的な動きになろうがなるまいが、人々が政治に対する何らかの「想い」を持ったことは、想像に難くありません。

「ローマ帝国衰亡史」を読んでいると、どれだけ権力をほしいままにした皇帝も、「民意」を意識しないではおれなかったようです。中には、暴君として有名なネロやカリギュラもいましたが、彼らも、まったく「民意」を無視していたようではなかったようです。

[ご参考①] 「ネロ」の wikipedia です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AD

[ご参考②] 「カリグラ」の wikipedia です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%B0%E3%83%A9

 

このように考えると、長い人類の歴史において、社会を動かしてきたのは「民意」であって、一見、権力を集中して持っているかに見える皇帝(名称は色々あるようですが)などではないように思えてきます。

つまり、制度としての民主主義は、あまり大勢(たいせい)ではなかったけれど、人類の歴史を実質的に牛耳ってきたのは、やはり「民意」ではなかったかと思うのです。それは、あたかも「民主主義」が、通奏低音として歴史の背景に流れていたということに外なりません。

 

現代において、曲がりなりにも民主主義は、政治のかたちとしては、最も適したものだと考えられているように思います。その意味では、民主主義が通奏低音ではあっても、ずっと奏でられていたということは、とても心強いことです。

ただ私は、この「民意」を、あまり信頼することが出来ません。何か、どこかに危うさを感じるのです。