人間にとって、「死」は生まれた時から定められていることは理解できますが、それがどのようなものであるのかについては、誰も、何も分かっていません。もちろん、分かっていると思っている人も少なくはないのですが、それが正しいと、理論的に証明することは至難の業だと思います。

もっとも、肉体的なことなら、身近な人が亡くなった時の記憶(私の場合は両親です)がありますから、「死」が、どういうことかということは分かります。血の気が失せ、生気がなくなり、冷たくなって棺桶の中に安置されるのです。

現代日本では火葬することになっているようですが、私の両親も、火葬場から一部の骨だけを骨壺に入れて持って帰ることになりました。要領の分からない火葬は、葬儀の中でも難しいことのように思っていましたが、すべてのことは係の人が案内してくださいますので、滞りなく済ませることが出来ました。

 

すみません。「縁起でもないこと」だと思われているかもしれません。ただ、消えてしまうことを考えるときに、肉体的なことも、ちょっとは触れておかなければと思ったのです。肉体美を誇れる私ではありませんので、関心はもっぱら精神的な面です。

生前ですら、精神(心、魂)は目に見えないだけでなく、二重、三重構造であり、不可解なものです。ましてや、死後、精神がどのようになるのかについてなど、分かるはずがありません。ところが、不可知ではあるけれど、何とかして知りたいと思うのが人情です。

 

黄泉の国があるのかないのか、でさえ、誰も正解など知る由もないのですが、想像力逞(たくま)しく、まるで「百聞は一見に如(し)かず」と言わんばかりの勢いで、具体的に描写までしようとする人もおられますが、現世から消えてしまった人が、その後の見聞を語れるはずもありません。