「朝鮮の友に贈る書」より引用

 

 私は貴方がたを想う。その運命を想い、その衷情ちゅうじょうを想う。私はこの書翰しょかんを貴方がたの手にゆだねたい。これを通じて私の心が貴方がたの心に触れ得るなら、この世の悦びが一つ私の上に加わるのである。更にまた私の心を貴方がたが訪ねて下さるなら、二重の幸いが私にくだるのである。この世においては、かかる事が真に深い幸福を意味するのである。見知らぬ力がかく為させ給う事を私は心に念じたい。
 私は貴方がたの上に祝福を祈りつつ、ここに筆をこうと思う。

(一九二〇年)

 

とうとう最後の件(くだり)になりました。ここまで、想いの丈(たけ)を書いてきた著者は、「見知らぬ力がかく為させ給う事を私は心に念じたい」との心境に至っています。神頼みのような表現にはなっていますが、ここには確信があるように思います。むしろ、その確信があるからこそ、ここまでの想いを綴ることが出来たのだと思います。

 

「衷情」。難しい言葉ですので辞書で調べました。

[ご参考] 「衷情」のコトバンクです。

https://kotobank.jp/word/%E8%A1%B7%E6%83%85-567526

 

「うそやいつわりのない、ほんとうの心」を、柳宗悦は何から識ることが出来たのでしょう。ソウルに朝鮮民族博物館(現在の韓国国立民俗博物館)を設立したほどですから、朝鮮に多くの知己を得ていたことは確かでしょう。けれども、私は何よりも、朝鮮で日用品として使われていた陶磁器から、朝鮮の人たちの魂を見ていたのだと思っています。

 

「(一九二〇年)」。ちょうど、今から百年前の著書です。まったく色褪せず、現代にも通じていることに、驚きと敬意を表したいと思うのですが、一方では、それが哀しいことでもあるように思えてなりません。

ですから、著者と同じ想いを持つ私も、何らかの形で、朝鮮への想いを綴りたいと思っています。韓国語をマスターして、韓国語の小説を発表できたらとの想いが、さらに強くなりました。