人間の自律ということについて、少し懐疑的になることがあります。人間に影響を与えるものは、風土や自然環境などの物理的、生物的なもののほかにも、生い立ちや周りの人間など、数え切れないほどの条件が複合的に作用しています。

そのような中から自意識は生まれるのですが、それはまるで、自分で創ったものではなく、周りに創られたもののようにも思えます。「私は、一人で生きてきた」と叫んでみても、これらの影響を抜きに自分を語ることのできる人はいないのではないでしょうか。

 

いつも自分の自由を大切にしているつもりの私も、このように考えると、とても自律的に生きてきたと胸を張ることは出来ません。私という人間は、色々な人の魂の断片からできているクローンではないかとさえ思えるくらいです。

それなら、組織による「マインド・ロンダリング」はもちろんのこと、大切な魂を抜かれるような「マインド・コントロール」をされても、他律的という意味では同じことではないかと思ってしまいます。もちろん、そのようなことは、自分を捨てることと同義ですから、決してあってはならないのですが、理屈の遊びでは、成り立たないこともなさそうに思えます。

 

本題に戻りますが、そうすると、「マインド・コントロール」を肯定することは出来なくても、どうしても「マインド・ロンダリング」まで防がなくてはならないものなのかとの疑問が湧いてきます。もちろん私は、「マインド・ロンダリング」を悪いこととして、この文を書き始めているのですが、そののように主張するには、この疑問に答えなければならないのです。