両親からの洗脳というものは、価値観の共有という意味において、恐らく、多くの家庭で繰り広げられるものだと思います。それは、人間の成長に、いい影響を及ぼす場合もあれば、その反対もあるのでしょうが、すべてが白紙である赤子にとっては、決定的なものだと言うことが出来ると思います。

実は、そこで自尊心、あるいはコンプレックスの素となるものも生成されるのでしょうが、とりあえずは、私が両親から受けた洗脳(言葉は悪いのですが、両親が、自分たちの想いを子供に伝えたいと思うのは、ごく自然のことです)についての話に戻します。

 

私は、両親の洗脳によって、自分の想いとして、文学者を志しながらも法学部を受験しました。実力不足から、大学に入るために二年も浪人生活を重ねましたが、あまり劣等感に襲われることはありませんでした。

三馬鹿トリオで鳴らした高校時代の勉強不足を自認していたことと、文学の才能を信じていた(そして今も。そして、その自信が、これまで私が歩んできた、この滑稽な人生を演出しているのかもしれません)ことが、確かに、私の中へコンプレックスが入り込まなかった理由だと思います。

 

このように考えてくると、私には、コンプレックスと自尊心に共通する素材が見えてくるような気がします。つまりは、自信というものが確信に近づくと自尊心が生まれ、自信を喪失すると、そこにコンプレックスが生まれるのではないかということです。

そこで、これから自信というものについて考えたいと思います。もっとも、私は自信家(特に文学に関して)ですから、少し、偏った思いを持っているかもしれません。ただ、その自信は、何の成果も生んでいない滑稽な代物(しろもの)なので、自分自身でも、やや自嘲気味に捉えているということも事実です。