「コンプレックスと自尊心」が、一つのものがあるかないかということだとすれば、その正体は、劣等感でしょうか、それとも自分に対する自信でしょうか?劣等感がなければ自尊の想いが生まれ、自信がなければコンプレックスが生まれるので、恐らく、どちらの考え方もできると思います。

ですから、劣等感を思い浮かべる人は、コンプレックスが強めで、自信を思い浮かべる人は、自尊心が強めだということが出来るののではないでしょうか。いずれも、どちらかに偏ることは危険で、いいバランスを保つことが必要だと思います。

 

私の場合は、どちらかと言うと、自信の有無が「コンプレックスと自尊心」を支配しているように思えるので、自尊心が強いのかもしれません。特に、文学への使命感に関しては、自信を通り越して確信となっているので、危険な状態だと言うべきなのかもしれません。

実際、この確信が十年に一度ぐらいは崩れることがあります。すると、哀しいコンプレックスが頭角を現し、危機的な精神状態になってしまうのです。もっとも、コンプレックスは自尊心の裏側だとも、自尊心はコンプレックスの裏側だともいうので、両者が一体のものであることは間違いありません。一晩寝ればコンプレックスは回転するので、再び自尊心の強い自信家に戻ってしまいます。

 

さて、「若気の至りで、私が両親と闘ったということを思い出したのは、自分の中に、コンプレックスと自尊心が共存していて、それが両親の価値観に対する拒絶反応を起こした」のは、今でこそ懐かしい想い出ですが、当時は、自分の人生を左右するような大問題でした。

なぜなら、その葛藤は、主として私の進路を巡って、何度も闘うことになったからです。大きな闘いは二度ありました。一度は大学受験に際して、そして、もう一度は就職に際して。哀しいことだと思いますが、この二度の闘いに、私は屈服して今日に至っています。