「感動を与える」という言葉に私が違和感を覚えるのは、そこに潜む「上から目線」への反感なのかもしれません。若くして活躍しているアスリートたちは、とても私などが及ばない才能の持ち主ばかりですから、「上から目線」になるのは仕方のないことかもしれません。そのことは納得なしています。私の違和感は、むしろ、彼らの中に「上から目線」で発言をしているという意識がないことです。

最近の若きアスリートたちの発言は、多くの人が感じておられると思いますが、一様に、とても配慮されていて如才なく、いかにも優等生的に聞こえます。恐らく、周囲の人たちから、あるいは専門家の人たちから、インタビューを受けた時の返答を事前にレクチャーされているのだと思いますが、それにしても、人柄は現れるものだと思います。スポーツの才能と奥ゆかしい人柄のにじみ出る天才たちが、今度の東京五輪でも大活躍をしてくれるのではないかとの予感がします。

 

ベートーヴェンも、スポーツ選手ではありませんでしたが、音楽の才能に溢れた天才でした。当時は、現代のようなインタビューはありませんが、伝記を読んでいると、かなりの自信家で、「上から目線」を持っていた人だろうとと思います。その自信は、中期の作品を聴けば伝わってきます。まさに、「感動を与える」意欲に満ち満ちているように思うのです。

[ご参考①] 例には事欠きませんが、運命の第4楽章冒頭もそうです。カラヤン指揮ベルリンフィルでお聴きください。

https://www.youtube.com/watch?v=qrmN02CuBnM

 

お聴きになればお分かりの通り、この音楽は、ぐいぐい聴衆を勝利の世界に引っ張ってくれます。それはそれで心地良いので、物の善悪ではありませんが、ここには、ベートーヴェンの「感動を与える」姿勢が如実に現れていると思います。それに比べて、後期の代表作であるピアノ・ソナタ第32番はどうでしょう。

[ご参考②] バックハウスの演奏です。

https://www.youtube.com/watch?v=rjQ7TxpMizc

 

激しい感情の起伏があるように聴こえる第1楽章も、感情が向かっているのは内省であって、決して聴衆ではありません。第2楽章に至っては、自分との対話のようにさえ聴こえます。つまり、この音楽は独白であって、決して演説ではないのです。その独白に、私の魂は同期して深い感動の波が押し寄せます。そこにおいてベートーヴェンは、もう他人ではなくなっているのです。