以前にも書いたような気がして調べてみたら、ほとんど同じ表題で、同じ想いの記事を、やはり書いていました。今回は、その想いが、さらに深まったように思ったので、重複を承知の上で再度、このテーマについて書くことにします。

[ご参考] 『「感動を与える」ということ』の記事です。

https://ameblo.jp/tosh-tanaka/entry-11259192770.html

 

当時も今も、「感動を与えたい」という言葉は、当たり前のように聞くことが多く、ずっと私は違和感を抱き続けています。感動とは、二つ以上の魂が、お互いの想いの波長を同期させることであり、まるで物を与えるような、「感動を与えたい」という表現は不適切であるとの想いは、ますます募るばかりです。

それなのに、若いアスリートたちが教えられたことを一所懸命に話している抱負などだけではなく、円熟した超一流と言われている芸術家が、臆面もなく「感動を与える」などと語ることがあります。それは、私には滑稽にしか思えず、その人が、どれだけ立派な芸術を発信されていたとしても、その発言だけで、その人は芸術家としては、本物ではないのではないかとさえ思えてしまうのです。

 

確かに、芸術を創造しようとする人たちはプライドも高く、自分にしか生み出せないものを持っているので、芸術作品を「与える」という意識を持ちがちだと思います。私のように、立派でない芸術作品しか生み出せない人間でも、芸術家魂とか、意気込み・気概などと称して、「感動を与える」作品を創造したいとの想いに捉われることもあります。

けれども私は、その都度、それは間違いだと自分を諫(いさ)めることにしています。作品は、私の想いの波長を発信しているだけのことで、そこに感動はありません。発信だけでは、心の交わりはないのです。

 

受信者がいてこそ、魂の交感が始まり、波長の同期という奇跡が起こるのではないでしょうか。感動は、そうして初めて生まれるものだと思います。ですから、それは「与える」ものではなく、発信者と受信者の間で自然発生的に起こる現象だと思うのです。ベートーヴェンの音楽を聴くと、その意味がよく分かるような気がします。