社会人になってしばらくして、仕事の関係で京都を出て以来、もう桂川をじっくりと観察することはなくなりました。東京の独身寮に入った時は、それが京都での暮らしの終焉であるとは夢にも思いませんでしたが、四年間の東京生活を経て関西に戻ってきたときは、桂で両親との三人暮らしに戻るのではなく、自分の家族と一緒に住む暮らしが待っていました。桂は実家になり、そのうちに両親の引っ越しによって、私は桂川への足掛かりを失ってしまったのです。

数年前、桂離宮を訪問するついでに、何度か、懐かしさに惹かれるようにして、桂川の川岸に下(お)り立ちました。そして、昔のように、小石などを投げてみたことはあります。けれども、旅人の感覚を突き破ることはできませんでした。やはり、長い年月を経て、もう私は地元の住人ではなくなっていたのです。

それでも、落ち着いた川面は、ゆったりと時の流れに重なります。そのテンポは、まさに私の想いともアンサンブルを奏でてくれるのです。流れの傍(そば)に佇んで、ゆったりと思考を巡らせると、忙(せわ)しない世間の荒波を忘れることができます。ちっぽけな人間の「から騒ぎ」に呑み込まれるより、遥かな時を流れてきた静寂に身を任せる心地良さが、何よりも70歳を癒してくれるような気がします。

 

ところが、近頃のネット社会では、雑多な情報が奔流(ほんりゅう)となって、「我が物顔」で世界中を駆け巡っています。しかも、その勢いは、ほとんどの人を巻き込んでいるように見えるではありませんか。時勢に疎い私でも、曲がりなりにもパソコンからネット社会を垣間見ていますし、最近では、スマホのゲームにまで手を染めました。

雑踏なら避ければいいのですが、それでも社会生活をしていると、どうしても通らなければならないこともあります。情報も同じです。こわごわ近寄ってみると、案外簡単に得られる情報もあります。もちろん、そうかと思うと、機械オンチ、パソコン音痴の悲哀を、嫌というほど味わわねばならない場面にも遭遇するのですが。

 

今の情報社会に対する私の印象は、まさに、情報の激流を目の前にしているというものです。そして、その激しさに面食らって、おどおどと尻込みをしているような気分になっています。ただ、それはネットに追いつくことが出来ない私の事情であって、ネット社会に生きている若者はそうでもなさそうです。

正直なところ、自在にスマホを操り、適宜、必要な情報を得て行動している人たちを見ると、とても羨ましくなってしまいます。人を羨むということは、その反動として、恨めしさや反感を伴ってしまうものです。特に、私のように修養のできていない人間は。そこで、そのように斜に構えた観点から、ちょっと感じていることを書いてみたいと思います。