私が朝鮮文化を愛する理由(わけ)を考えるためには、私が朝鮮や朝鮮文化に関わるようになった遍歴を辿る必要があると思います。私が、韓国語やパンソリなどを習うようになったのは最近のことです。大好きになってしまった韓流ドラマでさえ、八年前までは見向きもしなかったのですから。

それまでは、サラリーマンとして頑張っていた(よく空回りしていると言われましたが)ので、朝鮮文化に浸るような時間的余裕がありませんでした。けれども、時間的余裕があったはずの学生時代だって、朝鮮文化には無関心でした。ここにヒントがあるように思うのですが、遍歴を辿るために、もう少し以前のことから振り返りたいと思います。

 

私の幼少時代は、現代のような人権感覚は、まだ芽生えていませんでした。ですから、太平洋戦争で「国が破れた」という想いはあっても、戦前・戦中に根付いていたのではないかと思われる「朝鮮蔑視」の感覚が、多くの人に残っていたように思います。

今にして思えば、何とも愚かしいことで恥ずべきことですが、子供たちの中にも、「朝鮮蔑視」の名残のようなものがあったのではないかと思います。私も、今でこそ堂々と、しっかりとした人権感覚を持っていると胸を張っていますが、子供の頃、何かの折に、「朝鮮蔑視」の言動をしていなかったとは言えないのが残念です。

 

それでも当時は、大人も含めて人間味や人情が現代よりも濃く、ウエットな人間関係があったように思います。人権感覚が醸成されてきたはずの現代は、政治経済だけでなく、社会全般にドライな価値観が蔓延り、哀しいヘイトスピーチさえ生まれてしまいました。

けれども、朝鮮文化と日本の関係は、一つの文化融合の典型として、長い歴史とともに、現代も化学変化を起こし続けているはずです。それは、西洋と東洋の文化融合とは異なるように見えてはいても、原理原則は同じなのではないかと、私は考えています。ですから私は、西洋文化を愛するように、朝鮮文化も愛しているのです。