「教育勅語の何が悪い」と叫ぶ人の人格を認めたからといって、教育勅語そのものを認めたことにはなりませんが、どれだけ教育勅語が悪いものだとしても、全面的に誤りばかりだったとは思いません。悪人だって善人の一面があるはずです。むしろ、善人に見えるところがあるからこそ、多くの人を惑わすのだと思います。

日本近代史よりも、もっとイスラムの世界はわからないのですが、自爆テロを平気で実行する人たちを育てる教えだって、きっと、多くの真・善・美を散りばめた教えなのではないかと思います。ただ、どこか一点、あるいは数点、少しおかしい理論があるだけで、あのように生命を軽んじてしまう人間になってしまうのでしょう。

 

自由を謳歌できるようになった戦後教育だって、手放しで歓迎できるものではないように思えます。自由をはき違えた若者だと、私たち、団塊の世代に生まれた者も非難されたことがあるように思います。

戦前教育を懐かしむ声も、小学校や中学校で習った先生たちから聞こえてきたこともありました。ですから私は、前にも書いたとおり、「世の中にある物事には、絶対的な真実がないのと同じように、絶対的な間違いというものもないのではないか」と考え始めたのです。

 

それなら教育勅語の復活を許すのかと問われると、許せないというのが私の立場です。ただ、軟弱なことに、「そのような時代になっても、また歴史は変わる」などと思うので、徹底抗戦しようとは思っていません。これも私の立場です。

思えば、私も含めて人間とは愚かな動物です。同じ間違いを何度もします。私などはその傾向が強く、学習効果のない人だと呆れられてばかりです。それでも、一所懸命生きています。それが人間だと思うのは、我田引水でしょうか。