今回、私が「教育勅語の何が悪い」に対して、あまり強く異を唱えないのは、「教育勅語」の研究が不足しているだけでなく、世の中の出来事に対する考え方、特に自分の考え方と意見の違うものに対する見方が、少し変わってきているからだと思います。

何が変わったのか?それは、今までは、自分の想いが現実と乖離しないように動くべきだと思っていたのが、そうでもないように思えてきたということです。何とも軟弱なと、一昔前の私なら自己批判をしたことでしょう。ところが今は違うのです。

何が違うのか?私が動いたところで、世の中は何も変わらないということに気が付いたことかもしれません。諦めの境地?それなら大変です。自意識を捨てきれない私が、無我の境地になることができるのは、人生が終わる時だと思います。

 

ですから、私が「教育勅語の何が悪い」を、舌鋒を鋭くして攻撃しないのは、それなりに納得してのことです。もちろん、それは「教育勅語」に賛同することとは違います。ただ、世の中にある物事には、絶対的な真実がないのと同じように、絶対的な間違いというものもないのではないかと、最近になって考え始めました。

例えば、「アルコールは身体に悪い」ということについて考えてみます。この言葉を真実だと思う人もおれば、そんなことはないと否定する人もいるはずです。実際、アルコールを飲んで気分転換し、明日への活力にしている人もいるだろうし、肝臓などが弱くてアルコール摂取が難しい人もいます。同じ人でも、体調によって違ってくることもあります。

ですから多分、正しい表現は「アルコールは体に悪いこともあれば、良いこともある」ということなのでしょう。そのように考えると、この世に真実は一つではなく、時と場合によって真実が変わるということになります。ですから、「教育勅語の何が悪い」だって、必ずしも間違いとばかりは言えないようにも思えるのです。