私は、本物の謙虚とは、自覚しなくても自然に出てくる

ものではないかと思っています。ですから、謙虚を意識

すればするほど、それが偽物である証拠になってしまう

とさえ考えているのです。

 ところが哀しいことに、私自身のこととなると、この法則

が仇(あだ)になってしまいます。つまり、私が謙虚になる

ときは、いつも、それを意識している自分を見つけてしま

うのです。私の謙虚は、いつも偽物でしかありません。


 どうして私の謙虚が偽物なのかについて、ちょっと考え

てみました。すると、私の本質が、謙虚とは真逆のもので

あると考えなければならなくなってしまいます。

 謙虚の反意語は、傲慢、不遜、尊大などだと思うのです

が、真摯に心の底まで探ってみると、どうやら私には、これ

らが詰まっているような気がするのです。それも、それらが

私の本質ではないかと思わざるを得ないのです。


 何よりも、文学的才能などどこにあるのか、客観的には

その欠片(かけら)さえ見つけることができないのに、私は

確信を持ったまま、今に至っています。

 もっと言うなら、私は何事にも自分ができないことはない

と思う癖があって、畏れを知らないというか、まさに、傲慢、

不遜、尊大な人間なのです。

 何の根拠もないのに、そのような想いを持ってしまうとい

うのは、狂気の沙汰にさえ思えるのですが、辛うじて傲慢

を隠す術(すべ)だけは心得ているので、何とか社会人と

して暮らすことができたのです。