こうして、我が家では、賭け事や射幸心の虚しさを教え

ながら、パチンコや花札に興じるという教育が行われてい

ました。この矛盾について、私は両親に訊ねることもなく、

自然に受け容れていました。

 今頃になって、真意を聞いておけばよかったと思わない

でもありません。けれども、それ程深い意味は、何もなか

ったのではないかとも思うのです。

 あえて言えば、建前としての教育と、生活の中での愉し

みとは、別のことだということを教えてくれたのかもしれま

せん。ただ、それは巧まれたこととは、どうしても思えない

のです。


 パチンコも花札も、今では素敵な想い出になっています。

私の当てたパチンコ玉を、嬉しそうにキャラメルに交換して

いる母の姿や、座布団の上に配られた花札を、想いを篭め

てめくっていた両親の表情が、日常生活とは別の顔を見せ

くれるのです。

 世の中のことを理屈で斬ることは、必要なことではありま

すが、斬ってばかりでは疲れてしまいます。人間を貶める

ものとしてギャンブルを考えるのは、理屈の世界のようにも

思うのです。

 もちろん、貯蓄から投資などという、国民をギャンブラーに

しようとするような政策には賛成しかねますが、ちょっとした

興のために、ひとときの癒しを求めるくらいなら、許されるの

かもしれません。それは、お堅いはずの刑法にも明記されて

いることでもあります。


 それにしても、妙な教育を行った両親の真意を聞かないま

まにしてしまったことは、やはりちょっと気になるのです。