芸術において、作品と作者のことをどのように考えるか

については、かなり難しい問題提起があります。つまり、

芸術を作者から切り離して、独立したものとして鑑賞する

のか、作者の顔を含めて考えるべきかという問題です。

 これには、安易ではあるけれども、とても説得力のある

答えが用意されています。それは、芸術作品は独立して

鑑賞すべきではあるけれど、作者の顔も、その鑑賞には

大いに参考になるというものです。


 ほとんどの芸術は、この妥協の産物のような折衷案で

理解できるだろうと思います。その意味において、先の

問題に対する解として正しいと言えるのだと思いますが、

一部の例外があります。

 それは、その芸術作品が、作者の顔や人生と密接な

関係にあり、そのことを知らずに鑑賞しても、とてもその

作品の訴えるところを理解できないような場合です。


 どのような作品が、このような例外に当るのかについ

ても、恐らく、それぞれ議論のあるところになるでしょう。

主観を扱う芸術の難しいところです。

 例えば、私はマルグリッド・オードゥーの「孤児マリー」

を熱愛していますが、それにはオードゥーの純粋な人生

を知らなければならないと思っています。作品の中に、

稀有な魂が描かれたのは、奇跡的なオードゥーの魂が

あったからこそなのです。


 「ユートピア」が芸術作品であるかどうか、これも議論の

あるところでしょうが、この作品もまた、作者の生涯を知ら

ずには鑑賞できないものだと、私は考えているのです。