たった今、私は大勢の人が成長を楽しみにしていたパンダ

の赤ちゃんが亡くなったということを知りました。死因は肺炎

だそうです。残念なことです。

 新しい命の誕生は、政治も経済も閉塞している現代日本に、

明るい一灯を点してくれたと思っています。中国との関係や、

便乗ビジネスなど、気になることもありましたが、それでも、

そり成長過程を楽しみたいとの気持ちがありました。

 現世での炎こそ消えましたが、一身に私たちの期待を集め

たことは、ずっと私たちの記憶に留まることでしょう。冥福を

祈りたいと思います。


 最初に、この報道を聞いたとき、私は「パンダの赤ちゃんが

死んだ」との表現に驚いてしまいました。その冷たい響きに、

私はとても寂しい想いがしたのです。

 私は報道における言葉の使い方については、勉強したこと

ないので、あまり言葉だけに拘るつもりはありません。けれ

ども「死んだ」という言葉には、どうしても違和感があるので、

ここに記録しようと思ったのです。


 私の違和感とは、「死んだ」と言うべきか「亡くなった」と言う

べきかということです。感覚的には、「死んだ」という言葉では

哀悼の意が尽くせないと思います。

 広辞苑で、「亡くなる」という言葉の意味を調べると、「人が

死ぬことを婉曲にいう語」となっています。その意味では、人

ではないパンダには、「死んだ」という方が正しいのかもしれ

せん。

 それでも、私が何度も「死んだ」との言葉を聞いて違和感を

覚えたのは、私の中でパンダの赤ちゃんが擬人化されていた

からです。私は、その想いを大切にしたいので、「亡くなった」

との響きを求めているのだと思うのです。


 このような記事を書いている最中に、ある局のアナウンサー

が「亡くなった」との表現を使っていました。それだけで私は、

何だか温かい気持ちになりました。

 上野動物園の看板も、「亡くなる」という言葉が使われている

そうです。同じ哀しみでも、少しは慰められるようになりました。

記者会見で、これらの経緯についての質疑の模様も報じられて

いますが、私は、そっとしておいてほしいと思うのです。