愛については、私の文学上の大きなテーマであることから、

「愛のかたち」という記事をシリーズで続けています。本来、

その中で扱うべきことなのですが、今、とても気になる事件も

起きているので、ここでちょっと挿入します。


 現代は、本物が少ない時代です。それは、あらゆる分野で、

科学がニセモノを可能にしてしまったからです。花や木から光

や映像に至るまで、電気や合成樹脂などが、時には人間の

錯覚を利用しながら、ニセモノを大量生産してきました。

 このように、本物との見分けがつかないニセモノが、世間を

堂々と闊歩する時代に、現代に生まれた私たちは生きている

のです。いずれ、ニセモノは駆逐されるのかもしれませんが。

 もっとも、私はニセモノが悪者だと思っているわけではありま

せん。むしろ私は、ニセモノをとても便利だと思って、それらを

重宝しています。大切なことは、ニセモノと本物を見分けること

だと思うのです。


 愛にもニセモノがあります。それは、相手を想っていると思い

ながら、実は自分のことしか考えていない愛のことです。溺愛

とも言われます。それが、愛する者の人生を狂わせることに、

思いが至らないのです。

 自分の子供が、苛めの加害者であることを見ようとしないの

も、このような溺愛の結果だと思います。それが、自分の子の

成長を妨げていることに、まるで気が付かないのです。

 自分の子供を苛める親がいます。その結果、死に至らしめる

ことさえあります。そこには溺愛さえなく、時には無関心ゆえに

餓死させてしまう事件まで起こりました。


 ニセモノの愛やニセモノの親子が増えているのは、物質世界

と精神世界が密接に関連していることを想起させるものです。

現代はニセモノに優しい時代だと思わずにはおれません。

 子供への愛は、未来への愛です。それは、人間の持つ美徳

中でも、最も崇高なものの一つです。少なくともそれだけは、

ニセモノとは無縁のものにしたいと、私は切に願うのです。