家族は、とても強い「絆」で結ばれています。それはマスコミ

などが安易に使っているような軽い言葉とは、まったく異質の

ものです。家族のためなら、自分にとって一番大切な命でも、

平気で投げ出すことのできる人は少なくありません。

 私は、この「絆」を固く塗り篭めているのが、他ならぬ愛だと

思います。家族愛こそ、人間が自然に求めるものであり、また

意識することなく、湧き上がってくるものでもあるはずです。



 ところが、殺人事件の約半数が親族間で起きているそうです。

このデータは、とても意外に思えます。けれども、愛で包まれて

いるはずの親族が殺意を持ちやすいことは、残念なことですが、

私には何となくわかるような気がします。

 それは、私自身の心が、殺意とまでは言わないものの、同じ

ような気持ちになったことがあるからです。私は、大恩ある両親

に対して、怒りの激情に身を打ち震わせたことがあるのです。


一度は、英語の勉強中に自分流の勉強法を押し付けようと

した父に対して。もう一度は、私宛の私信を覗いただけでなく、

自分の判断で私から隠してしまった母に対して。

今になってもその時の怒りを思い出すぐらいですから、私も、

相当執念深いのかもしれません。ただ、私の憤懣は中途半端

なものではありませんでした。いくら親でも、やっていいことと

悪いことがあるはずです。



愛のある家族間で憎しみが生まれるのは、このように、家族

に対する期待が裏切られたときに、怒りから憎しみにまで心が

化学変化を起こしてしまうからだと思います。

 家族への想いが強ければ強いほど、家族への期待は大きく

なるものです。家族に無関心だとすれば、何の期待も抱かず、

憎しみへの化学変化が起きることもないのです。その意味で、

化学変化は愛の大きさの証であり、愛の試練だと思うのです。


 けれども、家族に対する愛があれば、この試練は同じような

化学変化で還元することができます。その媒介をするのも、愛

に違いありません。

 元に戻るための反応時間は、意外と長いものだと思います。

けれども、愛の力が必ずや憎しみを消してくれることを、私は、

自分の経験で知っています。親子の間だけでなく、夫婦間や

その他の家族でも、その愛憎は同じ構造だと思っています。