私が幸福を風情と同じように捉えるのは、それが、事実や
実体とは違って、主観的な心情であるからでした。心情とは
移ろいやすいものであり、訓練のできるものです。
風情を味わう心を育てるためには、感性を磨かねばなりま
せん。借景とは違いますが、生活している空間に存在する
ものに「あはれ」を感じるのも、一つの能力だと思うのです。
カラスが飛び立つのを見ても、人の言うことを真似るオウム
を見ても、ミノムシの鳴き声を聴いても、清少納言は「あはれ」
を感じました。その清少納言のような感性を、現代人であって
も持つことはできるはずです。
確かに、現代のカラスは、ゴミ漁りの末に食べかすの生ゴミ
を道路に撒き散らします。迷惑千万で、風情どころではありま
せん。オウムが喋るのも、今では珍しいことではありません。
テレビなどで、私たちは奇妙な動物の様子を見飽きています。
ミノムシに至っては、最近、ずいぶん見る機会も減ってしま
いました。都会の騒音の中では、ミノムシが「ちちよ、ちちよ」
と鳴く声を聴くことなどは、まったく覚束なくなっているのです。
それでも、蜘蛛の巣に掛った雨の水滴、手入れの行き届か
ない庭の砂の中に見える青い草、台風一過の後に庭の植え
込みの様子が違っていることなど、「あはれ」を感じる素材は、
現代の生活の中にも残っています。
大切なことは、私たちがこれらの風情を味わおうとする意欲
を持つことです。「求めよ。さらば与えられん」とは、新約聖書
が説いている言葉です。風情を求めて身の周りを見渡すこと
が肝要なのだと思うのです。
それと同じように、幸福を感じるためにも、心の鍛錬が必要
になるはずです。自分の幸福を探す意欲こそ幸福になる条件
だと、私には思えるのです。