私が言うまでもなく、氷山の底を見ることはできません。
もちろん、潜水すれば大きな氷の塊を見ることはできるの
ですが、映像で見たことはあっても、実際に氷山の底を
触ったことのある人は、ほとんどいないはずです。
それでも、私たちは観念的に氷山の全体を捉えることは
できるのです。「氷山の一角」とは、まさに氷山の全体を
頭において物事を考えている証拠です。この意識こそ、
物事の判断に欠かせないものだと、私は思うのです。
ところが観念的ということは、致命的に、至らない部分が
残ってしまうということなのです。それは、「氷山の一角」
だけで判断してしまうことが、世の中の常になっていること
を意味しています。
実際、最近でこそ犯罪被害者の権利にも照明が当たる
ようにはなりましたが、殺されてしまった人より、殺した人
の人権が守られるという理不尽がありました。
災害の被害者に関しても、亡くなってしまった人の意見
が反映されることはありません。すべて、生き残っている
人の想いが実現しているのです。
戦争においても、戦死者や市民の犠牲者が何かを言う
ことはありません。ここでも、生き残った人たちの戦争観
だけが、世の中の戦争観になっているのです。
歴史は、強者の歴史だと言われます。見えている氷山
だけの歴史が残るのです。英霊の想いに、心を傾けると
言う人の大半は、憶測か誘導のためのものです。
氷山の底を見ることは、ほとんど不可能です。それなら
人は、せめて「氷山の一角」意識を身に着ける必要がある
と思います。
断定は格好いいものです。けれども、そこに潜む危うさに
気づかなければ、道を誤ってしまうに違いないと思うのです。