このところ、ずっと「フィデリオ」のことばかり書いています。
それが、バランスに欠くことであることは自覚してはいます。
それでも、何とかもう少しだけ、こだわって私が書くことを、
お許しいただきたいのです。
書きたいことが、溢れるほどあるのです。ロマン・ロランは、
この歌劇のために、日本語訳で二段書き三十数ページの
文章を残しています。それでも私は断腸の想いで、今回を
含めて、あと二回だけにしておきます。
私が「フィデリオ」について書くのは、やはりベートーヴェン
が、その作曲人生において、バランスを欠くほど、この歌劇
に力を注いだからです。私は、その熱意に報いたいのです。
もし、ベートーヴェンがこの歌劇に、これほどの労力を使う
ことがなければ、どれだけの名曲が、さらに生まれたことで
しょう。それを惜しいことだと思うか、だからこそ「フィデリオ」
が素晴らしいと思うかは、人によって評価が分かれます。
実は、私はそのどちらでもないのです。ベートーヴェンが、
この歌劇に支払った血と汗は、「フィデリオ」の価値を高めた
以上に、それ以降の名曲で結実していると考えるからです。
その結果が最も如実に現れたのは、あの不朽の代表作
である交響曲第九番「合唱」だと思います。「フィデリオ」の
苦労は、まさに、この曲のためだったとは、決して過言では
ないと私は信じています。
歌劇の最後に、人々が高らかに謳われる合唱を聴いて、
あの年末によく聴く「合唱」の第四楽章を思い出さないわけ
にはいきません。それは、まさに歓喜と祝福の歌なのです。
そこで表現されるのは、民衆が神への感謝を謳うことです。
これこそベートーヴェンが理想郷として描きたかったものだと、
私は、このことも確信しています。
いい脚本がなく、ベートーヴェンは二つ目の歌劇を創ること
ができませんでした。ベートーヴェンの想いを、当時の文学者
は表現してくれなかったのです。
[ご参考] ロストロポーヴィチ夫人ガリーナ・ヴィシネフスカヤ
の若々しいソプラノが輝いています。
http://www.youtube.com/watch?v=0uGNVSXIdQw&list=PLD5E2EFA79BAE1EDD&index=2&feature=plpp_video