私の家の近くに、少し大き目の池があります。歩いて五分
も掛らない距離なのに、私は、会社を辞めて、時間が自由に
なるまで、ほとんどこの池に関心を示しませんでした。
最寄りの駅から私の家に帰る方向と、ちょうど対角線になり
ます。駅文化というのは不思議なものです。南北や東西では、
同じ街と思えないほど異なるのです。異文化に足が向かない
ことは、芸術の世界でも体験済みのことです。
これが、私がこの池に気を惹かれなかった、最大の理由で
した。電車の線路を横断するのと、橋を渡って川を越えなけれ
ばならないのです。おまけに、地方自治体まで違うのですが、
これはあまり関係ありません。
最近になって私は、昼食後の散歩で、この池の周りを散策
するようになりました。私が住んでいる街は、一応郊外であり
ながらも、ずいぶん都市化されてしまっています。そのため、
いざ散策するとなると、あまり自然に恵まれていないのです。
その中で、この池は数少ない水の景色なのです。それで、
水が少し濁っていても、散策できるのが池の周りの半周ほど
しかなくても、すぐ近くを無粋な電車が騒音と共に通過しても、
すべてを我慢して歩くようにしたのです。
池の向こうには、丘ぐらいの高さしかありませんが、住宅の
見える山があります。天気が良いと、そのお宅が、すぐ近くに
あるように見えるのです。
池の周りは、少しだけ整備されていて、ベンチも置いてあり
ます。そこに座っても、格別気持ちが落ち着くわけではありま
せん。けれども、ときどき、そこに腰掛けている人を見かける
ことがあります。
そういえば、母が生きていた頃、一度この池に案内したこと
がありました。ちょうど、水を入れ替えるため、干上がっていま
した。それでも、母は「いい所ね」と言いながら池を眺めていま
した。いずれ母は、この街に来るはずだったのです。