先週、長宗我部顕彰会さんが、長宗我部の時代を見学に行くのに、担当職員さんの案内付きで見るとのことで、

拙者も行っていました。

 

面白い話がいくつか聞けたので、共有します。

・岡豊城詰の段から出土した茶臼は、砂岩で作られた唐物で、当時としては最高級品。15世期頃の中国産。国親もしくは元親が茶の湯を楽しむ際に使ったのではないか。割れているのは、破棄する際に割る習慣があったから。

・受法寺の鬼瓦は、住職の話では、浄土真宗の教えに馴染ます、寺のものではない。松田所長曰く、この大きさの鬼瓦は浦戸城天守に葺かれていたものではないか。堺の瓦職人に手によるもの。

長宗我部屋敷に葺かれていた説も出ていました。

 

・徳島の一宮城のように、香川、愛媛で横堀、竪堀のある長宗我部の城の作りに似た城の発掘が進んでいる。おそらく長宗我部氏が四国制覇を目指す中で築いたのではないか。

・松田所長曰く、城づくりの職人集団を抱えていたはず。

・大高坂城出土の桐紋瓦は、長宗我部時代のものか、山内時代のものか、研究者で見解が分かれる。

・ 湯築城で岡豊城、中村城と同じ文様をもつ軒丸瓦・軒平瓦が出土している。  これらの瓦がどこで作られて城にどのように持ち込まれたのか、まだ明らかになってない。研究者の中には長宗我部氏がかかえる瓦職人の製作した瓦ではないかとする見方がある。

・さらに湯築城に長宗我部氏の城の瓦が持ち込まれたとみるならば、長宗我部元親の四 国統一を示す資料といえるのではないかともいわれているが、文献上戦国末期の河野氏の動静からすると長宗我部氏の四国統一は考えられないとする見方が あり、河野氏と長宗我部氏との関係について研究の余地あり。

・長宗我部氏の同盟者、伊予の金子元宅宛に、栄音が築城の職人を送ろうか?との書状が残っている。

・香宗我部親泰は、信長にも謁見しており、他国大名に優秀と知られていた。