平成31年2月24日に長宗我部会さんが主催で開催した、
講演会「麒麟がくる 明智光秀と長宗我部氏の関係」ですが、
内容がすばらしかったので記録をアーカイブ的に残しておきます。
講師は当時高知県立歴史民俗資料館で学芸課長を務めていた野本亮さんです。
・長宗我部氏の歴代当主は、土佐守護代の細川氏の当主から一字名前をもらっていた。主従関係あり。
・しかし、細川氏からは疎まれていた(京都の本家に直で話しに行くなど。組織でいうと、課長飛ばして、その上の部長、知事などに直接行かれるといい気はしないですよね。)
・土佐の歴史を見る上で、中央の権力闘争と絡んでいることが多いので、中央の歴史も合わせて見るべし。
・細川氏の系列、側近など息のかかった天竺氏、池氏、十市氏、石谷氏を長宗我部氏の周辺に配置。取り囲んでいた。
・国親が周りの人たちを滅ぼす中、石谷氏は土佐神社の神主に据えた。
・どうもその石谷氏を通じて、国親は石谷本家に姫を息子の嫁にと交渉していたのではないか(野本説)
・山科言経の「言経卿記」には、永禄9年、土佐の長宗我部殿が石谷殿とともに訪ねてきたという記載がある。お忍びで京都にいる義理の父、兄に会いにいっていたのでは(野本説)
・姫の名前は分かっていない。
・石谷家は足利将軍家を守る役目を持つ家で、名門。
・石谷光政(元親の義理の父)、石谷頼辰(元親の義理の兄)は、足利義輝将軍が殺された後は、京都で浪人をしていたようだ。
・そういう事情もあり、土佐に来られないので、元親は京都に挨拶に行ったのではないか。(野本説)
・石谷頼辰は斎藤利三の兄で、石谷家に養子に入った。
・石谷父子は京都での浪人世活の後、明智光秀の家臣となった。(ここで長宗我部氏との関係が出来た)
・石谷家文書におると、天正6年に信長から、息子に「信」の字を使ってもいいと許しがきた。
・長宗我部氏は土佐から勝手に出て、戦を始める大義名分も
権限もないので、土佐を統一した天正3年から天正6年までの間は、土佐内にいたと思われる、
・信長の許しを得て、天正6年から四国平定線に進出したのではないか。
・ただし、周辺国の武将に手紙を送り、地盤は固めていたのではないか。(野本説)
・他の四国の勢力も織田信長の別の側近に近寄り、取り入っていった。いわば、織田信長の家臣の権力闘争に地方の武将たちも巻き込まれているような形。
・当初、信長の明智光秀の信頼も厚く、長宗我部家は優遇されていたような形。明智光秀と信長が不和になり、他の勢力が台頭してきたことで、長宗我部家もだんだん苦しくなる。
・三好氏の巻き返し作戦(三好康長が秀吉の甥を養子にす
る)が功を奏し、信長が三好寄りに。
・信長が元親に、四国は土佐と阿波南部以外は返せと命じる。
・それに応じない元親。(光秀苦心)
・三好氏を前面に押し出し、四国攻めを開始。
・しかし、本能寺の変がおこった。
・本能寺の変後に、なぜ長宗我部氏は光秀を助けなかったという話があるが、毛利氏と不可侵協定を結んでいるし、瀬戸内には水軍もいるし、どうしようもなかったのではないか(野本説)
・ただ、石谷光政・頼辰親子は土佐へ救い出している。娘は信親の嫁。
・石谷頼辰は信親とともに戸次川で亡くなった。
【その後】
・長宗我部氏は京都の石清水八幡宮に宿坊を持っていた。
(当時、いろいろな武将が石清水八幡宮に宿坊を持っていた)
一昨年の大河では、長宗我部盛親がすぐに逃げたように描かれていたが、違う。
↑ここ重要(笑)
・八尾の戦いの後、大坂城に一度戻り、戦況を報告。
・真田信繁公に劣らない戦いぶり、戦果であると褒められ、次の日も戦うことになっていたが、大坂城が落城し、京都へ逃げた。
・おそらく、京都の石清水八幡宮の宿坊を目指していたのだと思われる。
・石谷家は、名門であったので、徳川家康により旗本として召し抱えられ、この石谷氏が石谷家文書を伝えた。
【その他情報】
・豊臣秀吉は長宗我部元親を信用していなかったし、
長宗我部元親も信用していなかった(野本説)
・長宗我部氏は柴田勝家、徳川家康、島津氏など、ことごとく相手方と関係を持っていた。
・また、戸次川合戦で息子を失ったのに、たいした官位を与えなかった。
・茶の湯、鷹狩りの記録は残っていないので、長宗我部元親は茶の湯、鷹狩りにはあまり興味がなかったようだ。
・歌には興味があったようで、岡豊別宮八幡宮に三十六歌仙の絵を奉納しているし、
歌会も開いていたようだ。黒潮町に住む家臣に、「締め切りを過ぎたが、歌がまだ出てきていない」という内容を送った書状が残っている。
※茶釜とか茶器とか岡豊城から出土しているので、それなりに茶の湯はしてたんじゃないかとは勝手に推測しますが・・・