空海・・・
そらとうみ横浜のホスピスの名前でもありますし、そこには生仏様もこの世にはいらっしゃるとは思うのですが、お遍路を2巡目を秋からしようと思っているので

空海について、少しまとめてみました。
 

私は真言宗に帰依もしてませんし、廻しものでもありません。

空海は、774年6月15日に、讃岐国の多度郡(現在の香川県善通寺市)に生まれたようです。
778年、15歳の頃、空海は、京(現在の長岡京)に出ますが、官僚になることを目指して大学に入ったようです。
でも、その年に官僚を目指すことを辞めて、四国や奈良の山岳を回り仏門を目指し修行の旅にでます。
793年、20歳の時に出家したとされています。
そして、797年、空海は「仏教をマスターすれば、困っている人たちを必ず救える!」という強い確信を持ち、三教指帰という書を書き残しています。
翌年頃、空海は大和国の久米寺で「全ての人が悟りを開いて、苦のない浄土の世界へ行ける」と考える仏教思想である大乗仏教・密教である大日経に出会います。
当時は仏教では、「釈迦のように厳しい修行を重ねれば、やがて悟りを開ける」という小乗仏教思想が大半でしたが、「仏様を心と五感で感じれば、誰でも悟りを開ける」というその思想に感銘し、荒波を超え、
804年(空海31歳の時)に中国(唐)に留学をします。
空海は、留学で、仏の教えは人間の理解を超えたもので、理解するのではなく感じるものであって、真言を唱えれば仏を感じれて一体になり誰もが救われるという真言宗を開きます。
真言宗では、浄土は自ら行くのではなく、人々が住む現世そのものが実は浄土であると考えます。
「悟りを得る」ことは、釈迦が見つけた方法にすぎずに、「悟りを開く方法が存在するという事実(真理)」が大事であって、万物の真理を象徴する仏様として大日如来を大切にするという考え方を真言宗では提唱します。
「大日如来」=「万物の真理」=「すべて(宇宙)」という考え方を説いてます。

日本に戻った空海は、政治的に真言宗を布教させたいという嵯峨天皇の意向もあって816年、空海は嵯峨天皇から高野山を与えられます。
大乗仏教の考え方は、念仏「南無阿弥陀仏」を唱えれば、誰もが仏になれるという浄土宗や浄土真宗、或いはお経「南無妙法蓮華経」を唱えれば救われるという日蓮宗など法華宗、などなど中世から現在に至る日本の仏教に引き継がれていきます。
空海は、旅をした若いころや、42歳から835年62歳で高野山にて生きたまま即身仏で入定するまでに中国で学んだことを活かし多くの足跡を仏教以外で残します。
綜芸種智院という庶民に門戸を開いた私設大学を日本で最初に開校したり、中国で学んできた灌漑技術をもとに故郷の香川の満濃池を開拓したり、教育から土木に至るまで多くの功績、足跡を残します。
四国には、伝承にすぎないかもしれませんが、空海が水に苦しむ場所で堀りあてた井戸、空海が堀った仏像、彫刻、絵、書籍など、教育、土木、美術などなど多くの伝承物がお遍路寺や周辺にあります。
そんなの全て空海のはずないと嘘八百と否定するのは簡単です。でも、一人の僧侶が1200年近くも、無数の足跡や伝承を残す事実のみ見ても本当にすごい人物であったことは間違いないように思います。

お遍路をしながら、空海ってどんな人であろうとネットで空海論を読んだり色々しましたが、1巡目お遍路をして感じた空海は、宮沢賢治の雨にも負けずみたいな人であったのではないかと、強く思うようになりました。


雨にも負けず風にも負けず雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち欲はなく決していからず、いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べあらゆることを自分を勘定に入れずによく見聞きしわかりそして忘れず
野原の松の林の陰の小さなかやぶきの小屋にいて東に病気の子供あれば行って看病してやり西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば行って怖がらなくてもいいと言い北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろと言い日照りのときは涙を流し
寒さの夏はオロオロ歩きみんなにでくのぼうと呼ばれ褒められもせず苦にもされずそういう者に私はなりたい

後で調べてみると宮沢賢治は、「漢和対照妙法蓮華経」について、感動して、その心を、雨にも負けずという詩に書いたそうです。
 

「宇宙そのもの、もしくは宇宙の真理そのものである大日如来と同一になった」と表現したのが密教であり、真言宗ですが、実は華厳経や法華経はほぼ同じ思想であり、空海が残した書物にも法華経についての記載が一番多いとされています。
空海も悟りを得るための一つの大事なこととして、きっとこんな思想だったのかなと思います。

人生は、四苦八苦があるとされます。八苦はあとからついたような話ですが、四苦とは、生、老、病、死で、これはどんな人間も必ず経験する苦とされます。
仏教は、そもそもその四苦から救いを求めるために生まれた宗教とも言われますが、よく仏教の根本や空海の考え方について学んでみると、実は苦は、今でいう苦しみとは少し違う解釈のようで、避けられない運命のようなとらえ方をしています。
空海は、幼いころに兄弟、家族を亡くしたことからこそ、仏教を志したという説もありますが、空海は実は、死についてはあまり直接的に触れてません。
でも、なんとなく、その苦は諦めるんだよということを言っているようにも思います。

「諦める」も、語源から考えると、当時の解釈は今の解釈とは大きく違い、明らかにしてそしてそれを受け入れることのようです。残念なことでもないようです。

空海は、悟りは生きてても得られて、宇宙の一部である生きている人間はそれを一体化したら、すべて大日如来になれるという考え方を説いて最後即身仏で成仏したようです。

私は空海の思想について全て賛同もできません。

即身仏もお腹空いて餓死こそ悲惨なのでは?とどうしても思いますし、どうだろうか?と思います。
でも、空海の思想の一つである「人を思いやる気持ちと、人に利益をもたらす行動をすることが全ての根本である。」という思想を思い起こすと、苦は誰にでも普通におきる運命であって、それは今でいう苦しみでもなくて、全てを受け入れ明らかにして、雨にも負けないで、人を思いやることこそが悟りを得ることだよと教えられているようか感覚をお遍路をしていて不思議と感じるようになりました。
雨にも負けずの詩のような空海のあたたかさや偉大さを、お遍路をしていると体感します。 


空海のように偉くは自分はとてもなれないけれど、自分の家族も亡くなった親族も、他人も皆、宇宙では一体で、自分もあと少し生きていくとしたときに、苦しみ嘆くことよりも思いやりが大事なんなどいうことだけは感じれるようになりました。

空海という名は空海が22歳ころ、室戸岬24番札所最御崎寺(ほつみさきじ)のある崖下にある御厨人窟(みくろど)から、室戸の景色を見て空海と名乗ったそうです。

 


人間は結局は、この空と海のあるこの地球、宇宙に生きていて、人生は短い長い色々あるけれど、結局は皆、最期は一緒で、どう生きるか?悲しい、悔しい、恨めしい、憎いで生きるか、人を思いやり、人とともに楽しく生きるかは自分次第なんだよなと、私が実感した景色です。


最近、ブログもインスタなども参拝系ばかりになり恐縮です室戸岬24番札所最御崎寺(ほつみさきじ)の写真もインスタにあげておきます。