3月1日、春女が宮へ参ると、侍女が「御庭の池の水を汲んで帰るように」と言ったので、汲んで帰りました。

3日、春女は再び水を汲んできて、近所の安井亀二郎という人が風邪で倒れていたので、その水を与えました。亀二郎が飲むと熱が少し下がり、気分が良くなったそうです。

6日、侍女が来て一分札を授けました。

7日、「家の霊屋に先祖の霊が来ている」と春女が言うので、急いで拝み、そして現世では名前を何と呼ばれていたか、何年前に亡くなったのかと春女に尋ねました。「名前は龍之助と言い、千年前に亡くなりました。亡くなった当初は忍穂耳命に仕えていましたが、今は大御神に仕えています」と言いました。

8日、先祖の霊から大文字の筆毛、引紙などが授けられました。夕方、侍女が来て「長壁大神は最近東京の氷川大神のもとにいらっしゃいますが、28日頃にはここに帰ってくるので、今日東京からの使者が知らせに来ました」と言って帰りました。

9日、先祖の霊から歌を書いた短冊二枚が授けられました。(この歌は17、18歳の時に詠んで書かれたものだそうです。)

10日、今日も先祖の霊から短冊一枚が授けられたので、盃についで奉ると、一滴も残さず飲み干されました。もう一盃奉ると、同様に一滴も残さず飲み干されました。

11日、先祖のもとへ東京の長壁大神から男神を使者として御文を送りましたので、先祖はその返事を書いて使者に渡し、自らも岩舟に乗って東京へ行かれました。

衣服は白い直垂のようなものでした。四人の供人のうち一人を残して三人を連れて行かれたそうです。

15日、障子に何かが当たる音がして、先祖の霊が東京から帰ってきたそうです。

黒馬に乗り、三人の供人を連れて来られたそうです。

21日正午頃、春女が「明後日23日には柿の宮(現:紅雲町。柿本人麻呂の歌碑があり、前橋城南端の門の名前も「柿宮門」だった)の赤城社(日枝大神に家康公を合祭する社、現:群馬中央病院にあった)でお祭りがあるので、先祖の霊も明日からそこへ行くためにお土産を準備している」と言いました。

夕方になって、明後日に赤城社で神武天皇の祭りがあるという回章が来ました。

22日正午頃、先祖の霊が桃色の衣服を着て岩舟に乗り、供人四人を連れて柿の宮赤城社へ行かれました。

春女も赤城社へ参ると、神武天皇が「春か、初めて会うな」とおっしゃり、家康公も「春か」と言いました。その他の神々も数多くいらっしゃって非常に賑やかで、家の先祖霊もいました。

23日、春女が赤城社へ参ると、昨日のように多くの神々がいらっしゃって琴を弾き、笛を吹き、鼓を打つなどして非常に賑やかで、神武天皇は立ち上がって舞われました。

春女が桃の花を持って行って奉ると、神々はその枝を襟に差して舞い、その枝を春女に返して「これは乾燥させて病人が出た時に煎じて飲ませると良い」とおっしゃいました。

家康公は奥にいて「今日は我々の祭りではないので奥の方に退いている」と言いました。

28日朝、侍女が来て「今日は長壁大神が東京から帰ってくる。その時この家にも立ち寄られるでしょう」と言って帰りましたが、果たして夕方に立ち寄られました。