ブログを開設した当初の目的は、交通研究の理論と現実の乖離の究明であった。しかしその構想が、当初予想したより世間に注目される問題や話題が、あまりにも多かったため、まったく違った方向に進んでしまった。それはそれである程度意義があったと思う。そこで今回は改めて初心に帰り理論と現実の乖離について述べることにする。

1.背景

 交通と経済の発展は密接不可分であり、交通能力の設定が産業の発展を促進し、また産業の発展が交通能力の経費負担を可能にした。こうした循環は国内の消費者にも国際競争力にも大きく貢献した。明治以降から1970年代にかけて、わが国は交通投資を模範的に進めてきたといえる。

 高度成長のもとに交通体系が急速に整備され、同時に交通量も飛躍的に伸びた。また交通量は、人、モノともGDPの伸びとほぼ同率に推移した。この間の需要予測や交通学も過去の推移をたどることによって、ある程度貢献できた。そのため理論と現実の乖離は、ほとんど意識されなかった。

しかし際限なくこの傾向を続けられるものではない。事実70年代に入ると、産業の高度化により、GDPとの相関も希薄になり、また交通政策も施設整備と環境保全との調和が重要な課題となった。

またグローバル経済の到来は、一方で先行き不透明な時代に入ったのである。全世界の経済に大きな影響を与えたオイルショック(1973年)やアジア通貨危機(1997年)、リーマンショック(2008年)など、誰も予測できなかった。もはや過去の趨勢から予測することは困難になったのである。

このように交通研究の対象は、経済成長とともに多様化する一方で、経済学の応用で論じることのできる分野が著しく縮小した。交通経済学はこの変化に伴って、新たな方向に転換すべきであったが、この努力を怠ってしまった。理論と現実の乖離のはじまりである。

2.理論と現実との乖離の背景

 学問の分類にはさまざまあるが、自然科学と社会科学でみると、前者は工学、医学、農学など自然界を扱う分野が対象となる。これらは知識がつねに更新され集積されていので、最新の本を読むか、現地の最新の実態をみればよい。つまり理論や法則の影響を受けない。

 後者は人間科学や社会関係などを対象にしている。これらは理論や法則の影響を受けやいといわれ、交通研究は技術関係を除いてこの範囲にはいる。理論と現実との関係で問題が生じるのはこの分野である。

 理論とは、「科学研究において、個々の現象や事実を統一的に説明し、予測力をもつ体系的知識、狭義には明確に定義された概念を用いて定式化された法則や仮説を組み合わることによって、形作られた演繹的体系を指す」と定義されている。これでみるようにきわめて抽象的な法則であり、演繹法である限り机上論に陥りやすい。

 とくに交通は地域の地理、歴史の諸条件に左右され、また各人の価値判断が入り込むので、その法則性はきわめて弱い。法則性が弱いほど理論の適用が困難になるから、研究において理論をいかに精密に用いても、多彩な現実を説明できない。当然個々の現象の統一的な説明などできるはずがない。

また人間の意識が時代についていくことさえ困難なのに、時代を先取りし予測することができるはずがない。上記でみた理論の定義自体も現実から既に遊離している。

 いうまでもなく交通経済学は、経済学に依存してきた。アダム・スミスの前に経済学はなかったはずであり、彼は現実の問題から理論を発見したのである。本の上で発達したわけではない。

どのような理論でもすべて新しい問題にぶつかって発達している。すでに出来上がった理論は、常に時代に遅れてつくられることになる。それでも当初の理論は現実を反映していた。しかし経済が発展し現実が変われば、当然理論も変わる。つねに理論と現実との検証をしなければ、この両者の遊離が拡大するばかりである。

 交通に目を転じると、輸送具、エネルギー、労働力の需給は世界全体として、一緒にされる性質である。しかし交通自体は地域の風土、環境などの影響を強く受ける。世界全体で正しい理論も、日本では正しいとは限らない。

 理論は理論、現実は現実というのでは、理論と研究はますます現実から離れていき、企業の実務者は独自の知識体系を築いていくことになる。事実実務者は研究者に対し、なんとなくアカデミックで近寄りがたいと感じ、研究者は実務者に対し、実務の知識に劣等感をもち、両者の接近は敬遠される傾向にある。

 本来ならば研究者は、現実こそ学ぶべきであり、それによって理論を導き出すものである。しかし研究者は、理論で議論し答えを導く傾向にあるため、理論と現実の乖離は拡大することになる。

3.課題のみかた(既成概念からの脱却)

 交通については、各人がさまざまな意見を有する。それらを集約した方向に改善されていくことは望ましい。しかしそれらの主張が①過去の傾向への盲信、②問題点の一面的指摘、③外国事情の断面的紹介、④統計数字の表面的理解になりやすいことに注意しなければならない。

 社会科学に係る研究は、過去の知識や外国の学問など、そのまま尊重し信奉することではなく、対象となる実態そのものに着目し、因果関係を把握し、根本となる原因を確認することである。その意味で研究は実証主義を徹底したものでなければならない。

① 過去の傾向への盲信

 交通において今日直面している問題の多くが、過去の成功によってつくりだされたものである。運賃政策、規制政策など経済成長に貢献した。しかし経済が発展し、交通市場が形成され、こうした役割が衰退したにもかかわらず、当時の理論が問題意識を支配し、その視野を狭いものとしている。そしてそれが今日の問題解決の最大の障害となっている

 また貨物輸送において、しばしば鉄道は安いのにトラックが利用されるとか、長距離は鉄道が安いはずだといわれる。かつてはそうであったかもしれない。しかし現在はそうとはいえない。現在はトラックの大型化や性能の高度化などにより、東京-大阪間の距離でも両端に集配を伴う鉄道輸送と競争力をもっている。

 すなわち過去の理論は、一定の経済基盤を前提に成り立っている。その根本の経済基盤に変化が起こると、その理論も変化するはずである。しかし理論のみで議論していると、その変化を見落とすことになる。ものごとを評価・判断するときの基準となる価値観は時代とともに変化する。過去の傾向を盲信してはいけない。

② 問 題点の一面的指摘

 交通政策において公共目的のため、投資や規制が行われるけれども、その目的は、一部の地域、一部の集団の利益であることが多い。そのために他の地域や集団の利益が阻害される。とくに道路、ターミナルなどのインフラ整備にあたって、利用者は利便性の向上により歓迎されるが、それらの周辺の住民は安全や環境面から対立する。また鉄道の安全性を高めることは、利用者や周辺住民には歓迎される。しかしそのためであっても運賃値上げは反対する。

 交通の公的性格がいわれても、実態は集団や個人、あるいは地域の利害の対立が生じるので、すべての理論は相対主義に立つ試行錯誤とならざるをえない。立場が変われば利害も変わる。問題点の一面的指摘では、問題の本質を見失う。

③ 外国事情の断面的紹介

 わが国の交通論は、外国の輸入からはじまった。そのため欧米の交通が理想のように紹介されてきたが、自動車と公共交通との関係、交通と環境との関係などでは、彼らも理想的な解決策を発見しているわけではない。

 それでも外国での試みや提案が万能薬のように宣伝される。しかしそれらが失敗であり、不採用であったことがわかっても、それらはほとんど一般に知らされないため、一般の国民には、外国の試みを成功例と信じやすい。

 また環境対策として、たびたび紹介されるロード・プライシング(混雑税・道路課金)、ピークロード・プライシングなど、一般に普及している国はない。外国事情の断面的紹介を盲信してはならない。

④ 統計数字の表面的理解

 統計は現実の経済の始動そのものよりも、早くとも2~3ヵ月、多くは1年以上も遅れて手に届く。したがってその最終の統計をもとにした経済行動は、実勢よりも1年ほどの遅れたものとなる。もしこの間にリーマンショックのような大事件が起これば、それらの経済行動は無意味となるか、弊害となる。

 また1人当たり(平均値)でみる場合、次の点に注意しなければならない。対象となる数値にバラツキが少ないときは、有効な値となるが、そうでない場合は、必ずしも実態を現しているといえない。

たとえばわが国のように生産量の多い少数の大手企業と、生産量の少ない多数の中小規模の企業が混在しバラツキが大きい場合、平均値は一部の大手企業の値に影響される。

 そのため1人当たりのGDP、実質賃金の値は、実態より高く評価される傾向がある。したがって1人当たりのGDP、実質賃金の他国との格差は、さらに広がっていると考えられる。また実質賃金は横ばい傾向であるが、実態は低下しているとみるべきである。こうした例で明らかのように、数字は現実の世界を反映したものでなく、その合計や平均は、はじめから現実と遊離している場合があることに注意しなければならない。

4.空間の限界

 交通が発達するほど空間の必要規模が大きくなる。しかも交通需要は狭い地域に集中する性質であり、土地の高密度利用が進むほど、交通用とそれ以外の用途の要求が競合し、交通手段相互も競合する。そしてそれぞれの空間に限界がくる。

ひとたび空間の限界を超えると、交通混雑などいくら費用をかけても解決できない部分が増加し、さらにそれまでプラスであった政策が逆にマイナス要因に一変することもある。

 一方交通経済学では需要曲線と供給曲線が描かれ、価格さえ上げれば供給は必要なだけ増加できる形になっている。交通においてもある段階まではそう考えてもよい。しかし地域において、交通能力の限界(空間の限界)があるということを重視していない。

 1950年代には経済力が増大し、交通能力の不足を生じさせた。資金供給能力は増加したけれども、交通混雑、交通公害という新たな課題を抱えた。交通の需要および供給の経済面に着目し、価格による需給調整を中心とする交通経済学は、この点に認識が遅れたのである。

 道路混雑は道路交通能力の何倍もの交通量で発生するものではない。最後に追加された10%の追加台数が著しい渋滞を発生する(越智正毅「交通工学論」114~115ページ)。また大気汚染然の場合、大気自らが修復する能力を有するが、ひとたびその限界を超すと、もはや修復が困難になる。

 しかし最後の10%、あるいは自然界の修復できる限界がどこか誰もわからない。もしかしたら大気汚染の限界は既に超えているのかも知れない。

 こうした状況を回避するために技術開発の期待は大きい。しかし今後はこれまでわれわれが享受してきた便利さ、効率化を犠牲にするという意識を持たなければならない。欧米に比べ交通空間の少ない日本では、とくにそのことを認識しなければならない。残念ながらこれらのことは、学問の対象とはならない。

5.理論と現実の接近

 学問において、理論と現実の接近を追及した代表的な学者として、福沢諭吉、高橋亀吉、角本良平などがいる。

福沢諭吉は「学問のすゝめ」(1872~1876)において、学問は旧来の儒学、漢学でなく、「実学」であることを説いている。実学という言葉は、ここで用いられたのがおそらく最初であると言われている。

 福沢諭吉(1835~1901)は勝海舟らと咸臨丸でアメリカに初渡航し、その後2度欧米にわたっている(1860、1862、1867)。彼の場合は、かねて文献で知っていた知識を現地で確認するとともに、相手国の実態を観察して、国民にそれらの知識を伝える役割を果たした(詳細はブログの3回、4回)。

 その後交通に関する学問は、外国からの輸入に頼ることになった。しかし外国の経済学の直輸入では、「理論と現実との乖離」は避けられなかった。欧米の学問の精神を徹底することにより、その原因に気づき、そうならないように心がけ経済学を研究した1人が高橋亀吉(1891~1977)である。

 彼は過去の知識や外国の学問をそのまま尊重し信奉することではなく、対象とする現実そのものに着目し、因果関係を把握し、根本の原因を究明することに徹した。この意味で彼は実証主義者であった。

その後理論と現実の乖離の橋渡しをいかに行うか、実証主義にもとづきその方法論を究明したのが角本良平(1920~2016)である。

 彼の主張はつぎのとおりである。「われわれに可能なのは、まず個別の現象の正確の把握と、因果関係を解明することである。つぎに可能なのは類似の現象があれば、それらの特徴にもとづいて「類型」をつくり、現実をより正確に理解することである。ときにはある程度の経験法則が得られるかもしれない。政策は類型による知識体系を基礎にして、複数の可能性のなかから一つの答えを選択する立場に変わらなければならない。学問から明確に一つの答えが出てくる、あるいは答えが一つしかないと思うのは誤りである。」。

 一日も早くそのように考える研究者が増えることを期待する。現実と遊離する研究は学問ではない。

6.現実をみよう(事例)

 しばしば交通を論議する場合、実態を軽視し表面的な現象で行われることがある。交通政策にとっては、不毛の理論となることがある。ここでは①内外価格差、②モーダルシフトについてみてみよう。

① 内外価格差

 わが国において1900年後半から交通にかかわる規制緩和が進められた。この時期に話題になったのが内外価格差である。トラック輸送において日本は規制があるため、アメリカと比べトン当たり運賃が3倍高いという指摘である。

 調査の結果、平均値でみれば日米の差は3倍であった。しかし輸送形態をみると、国土の広さの違いから、日本は小口・短距離輸送(平均積載量4トン、平均輸送距離約80㎞)が主体であるのに対し、アメリカは大口・長距離輸送(平均積載量14トン、平均輸送距離訳700㎞)が主体となっている。

 これだけ輸送形態に違いがあるにもかかわらず、平均値で日米の比較を行うことにほとんど意味がないことがわかる。

またドライバーの人件費の高さが指摘された。日本は単車輸送が主体であるのに対し、アメリカはトレーラ輸送が主体である。さらにアメリカはオーナードライバー制であり、オーナードライバーはフォワーダーの指示にしたがって輸送業務を行っている。

このためフォワーダーにおいては、ドライバーに係る費用は外注費として計上される。日米の人件費の計上方法に違いがあることを見落とした比較となる。

 ちなみに日本の条件とあわせてみると、運賃、人件費とも両国の差はほとんどなかった。

①  モーダルシフト

 交通施設は環境への影響も大きく、施設と環境保全との調和が肝要である。またエネルギーのほとんどを外国に依存しているわが国としては、エネルギーの効率的利用は重大関心事である。さらに2024年問題もあって再びモーダルシフトが注目された。

 モーダルシフトの理由は、低炭素化および1人当たりの輸送量の効率から、自動車から鉄道や船舶に転換せよというものである。しかし鉄道輸送、船舶輸送ともほとんど両端は自動車に依存することになる。

 したがってこれらの比較は、ドア・ツー・ドアの完結した輸送機関の組み合わせと、それに係るターミナルなどで必要となるエネルギー、労働力を含めた総合コストで行わなければ、輸送の実態を反映したものとはいえない。

 自動車から他の交通手段への移転には、どの発着区間で可能かという論点と、その区間に他の手段の能力が供給可能かの論点がある。少なくとも東京近郊や大阪近郊の近距離輸送では移転はほとんどありえない。

7.終わりに

 交通は人であれ物であれ人類の生存に欠くことのできない移動手段である。交通の基準となる価値観は時代とともに変化し、また人によっても異なる。交通研究には常に課題が存在し、それが時代の流れとともに変化してきた。ある一つの解決が、また新たな課題を発生させるからである。

 課題を発生させるのも、それらを解決するのも、価値を判断するのも、主役は常に人間である。交通研究は、その対象が人間である以上終わることはない。