4月1日よりNHKの朝ドラ「虎に翼」が始まった。主演の猪爪寅子(いのつめとらこ)のモデルは、女性で初めて弁護士および裁判所長になった三渕嘉子(1914年~1984年)である。退官後の三渕嘉子は日本婦人法律家協会の会長を務めるなど、女性としての法曹界の先頭を歩き、後輩たちの道を切り拓いた。

 新たな分野を切り開くのは男女を問わず、いつの時代も相当の努力と忍耐を要する。それは、旧来の権益を守りたい保守的な人たちが多く存在し、必ずしもすべての人々に好意的に受け入れられるわけではないからである。場合によっては、そのことによって命を落す人さえいた。

 そこで今回は、「虎の翼」から、先駆者といわれる人たちの生きざまの一端について触れてみたい。

1.文明開化の先駆者(江戸から明治へ)

 中世において学問のみならず政治においても、宗教がその上に立ち、それらを支配した。わが国では中国から渡来した儒教とインドから渡来した仏教の影響を強く受けている。日本で儒学が学問として行われるようになったのは、室町時代からである。江戸時代には儒教に基づく儒学者(とくに朱子学)を教育者として重用し、幕府の官学となった。そのための聖堂学問所(湯島聖堂)での朱子学以外の講義を禁じた(寛政異学の禁)。それでものちには、洋学や国学も取り入られるようになった。

 一方で18世紀前半には、これらの影響を排除した国学や蘭学、西洋学が登場した。国学では「古事記伝」を著述したことで有名な本居宣長、その影響を受けた平田篤胤などがいる。国学は日本中心の復古主義を強め、幕末には排外的な攘夷思想に強い影響を与えた。

 西洋の学術・知識の吸収や研究は、蘭学を窓口に広がった。そのなかでも医学は実用学問として、いち早く取り入られた。なかでも1774年前野良作、杉田玄白らが西洋医学の解剖書を訳述した「解体新書」は有名である。さらには蘭学医かつ蘭学者であった緒方洪庵は大坂に塾を開くなど、多くの人材を育成し、西洋文化の土台をつくった。福沢諭吉はそこの門下生である。

 一方海外からの圧力も加わった。1853年の黒船来航以前、すでに儒教の発祥の中国には欧米列強の、とくにイギリスの二度にわたるアヘン戦争があり、こうした世界情勢は鎖国下の日本でも徐々にではあるが、情報が確実に伝わっていたのである。こうした情勢に危機感を感じた林子平や佐久間象山などが海外防備を主張した。しかし当時幕府の官学である朱子学者の反感を買い、林子平は強制的に帰郷させられ、「親も無し 妻無し子無し 板木無し 金も無けれど 死にたくも無し」という狂歌を残し、失意のなか亡くなった。

 その意思を継いだ蘭学者である渡辺崋山、高野長英も幕府の反感をかい、崋山は自ら腹を切っており、長英は逃亡のすえ殺されている。

  こうした先覚者の考え方を実践しようとしたのが佐久間象山である。彼は1842年大砲の強化、大船の建造などの必要性を主張した「海防八策」という意見書を幕府に上申している。日本は欧米列強と対等に互していけるような独立国家になるためには、開国して海外に学び、大砲と船を近代化し、海軍を建設することが重要であるとの思想である。

 この重要性にこれまでみたことのない黒船「浮かぶ砲台」を目の当たりにして、一挙に開眼した。黒船に対抗するためには、蒸気汽船と大砲の開発が必要であり、そのためには、まず鉄を作るための科学や冶金といた技術を学ばなければならないことに気が付いたのである。結局は西洋の文明を学ぶということにつながった。

 この思想は後の福沢諭吉の1875年(明治8年)「文明論」「学問のすゝめ」に引き継がれる。その帰着するところは、西洋文明を取り入れることによって、日本の独立が確保され、国民の文明が開化されるというものである。また福沢も国防のため、砲術を西洋人から学ぶ必要性を感じ、それがオランダ語、英語の習得へとつながった。

 象山、諭吉とも最初、朱子学を学んでいたが、朱子学の限界を感じ、積極的に西洋学を学んだ。この生きざまも両者酷似ている。しかし象山は志半ばで攘夷派に暗殺されている。諭吉も生きた時代が異なれば、殺されていたかもしれない。ともかく当時に新たな思想や学問を開設することは命がけのことであった。ちなみに象山から教えを受けた主な人には、勝海舟(象山の義理の兄)、吉田松陰、坂本龍馬、加藤弘之(東京大学初代総長)などがいる。

 明治政府になり、文化や国民生活の近代化の必要性から、欧米文化を積極的に取り入れた。当時文明開化といわれた。思想、学問界でも今までの儒学、朱子学が排斥され、かわって自由主義、個人主義などの近代が流行した。教育面でも男女等しく学べる施設として、東京大学(1877年〔明治10年〕)、福沢諭吉の慶應義塾、新島襄の同志社など創設された。

しかし文明開化を果たしたわが国は、欧米で日常的である男女平等の文化は持ち込まれず、女性が社会進出を果たすにはまだ先のことであった。

2.女性の社会進出

 それまでの女性のほとんどは、表舞台に立つことはなく、陰で支えることが美徳とされていた。たとえば、土佐藩の「山内一豊の妻」千代の有名なエピソードがある。まだ一豊が織田信長に仕える貧乏侍のとき、安土の城下に馬商人が見事な馬を売りに来たのをみた千代は、自分のヘソクリでその馬を買っている。そのときの馬が観兵式のときに信長の目に留まり、一豊は出世のきかっけをつかんだ。

 また華岡雪舟の話も有名である。雪舟は1804年世界で初めて全身麻酔を成功している。雪舟の全身麻酔にあたり、母と妻の強い申し入れにより、自らが人体実験の対象になっている。

 1871年(明治4年)からほぼ2年にわたる欧米視察団「岩倉具視使節団」は、女性が表舞台にでるきかっけとなった。使節団は欧米の制度や文化に触れ、帰国後政治、経済、文化など多様な分野で日本の文明開化に貢献した。

そのなかに5人の女子留学生が随行しており、女子教育に尽力し、1900年(明治33年)に女子英学塾(現津田塾大学)を創設した津田梅子、鹿鳴館外交で活躍した山川捨松がいた。 しかしながら当時はまだ儒学の価値観が色濃く残っており、女性の活躍できる分野は乏しかった。

 それでも西洋近代化思想は次第に広がり、文学界にもその影響を受けた樋口一葉(1872年~1896年)、与謝野晶子(1878年~1942年)などが登場した。大正時代には「大正デモクラシー」を掛け声に、女性の自我の解放・権利獲得を訴えた思想家、女性解放運動家も現れ、平塚らいてう(らいちょう)(1886年~1971年)はその一人である。らいてうは戦後参議院議員となった市川房江(1893年~1981年)らとともに女性の参政権獲得、権利獲得などに疾走した。結局その実現には戦後間もなく1945年(昭和20年)に改正された「日本の戦後改革」によってなされた。

 また1918年に勃発した与謝野晶子との「母性保護論争」も有名である。らいてうは、妊娠・出産・育児期の女性は国家が保証し、女性が結婚と職業が両立できるようにすべきというものである。これに対し晶子は女性が男性にも国家にも頼らず経済的に独立すべきであり、経済力がないなら結婚すべきではないというものである。

 その後社会主義者などが加わり、その論争は1年にも及んだ。「男女機会均等法」や「育児休業制度」が整備され、さらに「子ども・子育て支援金」の導入が議論されている現在でも、多くの女性が家庭と仕事の両立に悩んでいる。こうした現状から「母性保護論争」の論点は、今日でも通じるといえよう。

3.虎の翼の猪爪寅子(三渕嘉子)の活躍

 朝ドラの虎の翼の猪爪寅子(三渕嘉子)は、こうした時代背景のもと、女性初の弁護士、裁判官を経て裁判所長となったのである。寅子が弁護士を志したのは、女性が弁護士になる道が閉ざされていた時期であり、弁護士になったときもまだ女性の参政権が認められていなかった。

 ちなみに女性が弁護士になるのには、1936年(昭和11年)の弁護士法改正まで待たなければならなかった。また女性が参政権を得たのは1945年(昭和20年)の衆議院選挙法の改正によってである。

 こうした時期に女性が法曹界を目指し、裁判所長まで上り詰めたことは、幕末に命がけで文明開化を実現してきた偉人たちを彷彿とさせる。彼女は退官後も日本婦人法律家協会の会長をはじめ、いくつかの役職を歴任して、法曹界の先頭を歩き、後世に道を切り拓いた。その影響は法曹界のみならず女性の権利獲得、活躍できる分野の拡大などにも多大の貢献を果たした。

 今回の朝ドラを寅子の生きてきた時代背景を想像しながら、彼女とそれを取り巻く人間模様などについてみると、さらに深みを増すと思う。今後の成り行きが楽しみである。