2024年の新年を迎えようとした時に、能登半島においてマグニチュード7.6を観測する大地震が起きた。日にちが経過するにともない、深刻な被害状況が明らかになり、さらに感染症拡大が懸念されている。被災された方々を思うとやり切れない。

 今回の地震で被害を大きくしたのは火災である。テレビ報道によれば、最初は小さな火災であったが、ちょうど津波の引き潮の時であり、防水のための河川の水が海に吸い込まれてなかったため、防火活動ができなかったとのことであった。津波が火事を大きくした原因になることは、誰も予想できなかたであろう。災害は予想しなかったことが起きる。安全といわれる石川県の志賀原発、さらには柏崎の刈羽原発の動向について注視しなければならない。

 ところで能登の大地震は、今回がはじめてではない。約300年前の1729年(享保14年)旧暦の七夕に発生した享保能登地震である。マグニチュードは6.9であり、輪島市から珠洲市沖の断層が約20キロメートル動いたといわれる。

 最近の事例としては、2007年(平成19年)3月25日石川県輪島沖40キロメートル地点でマグニチュード6.9の地震が発生している。この時は18キロメートル以上の活断層を発見している。 今回の大地震は、政府の地震調査委員会によると、150キロメートルの断層が割れた可能性を指摘している。この両者の被害は、多くの家や蔵、山崩れなどの被害を受けたが、死者は前者が5名、後者が1名といわれた。今回は200人を超え地震の規模は桁違いに大きい。

 そこで、ここでは能登の歴史性、風土性の一端をみながら、地震災害の復興について考えてみよう。

1.能登の歴史性、風土性

(1)日本海交易の先端の地域

 能登は江戸時代まで、北海道にいたる日本海の海上交通に依拠し、廻船による交易を活発に行っていた拠点であった。松前から昆布などの商品を佐渡、敦賀、さらには琵琶湖を超えて、近江の大津や京都、大坂とも取引を行っていた。能登からは塩や炭などが商品となった。また漆器職人、素麺職人、さらにそれらの販売に携わる大商人がたくさんおり、これらの商品は、北前船により、各地域に広められた。

 こうした背景により、江戸時代までの能登は、港町、都市が多数形成され、日本海交易の先端を行く廻船問屋や商人が大勢活躍しており、金融的な富についてきわめて裕福な地域であったといわれている。つまり企業家的精神をもつ多角的な経営者が多く存在していたのである(縄野義彦、「日本の歴史をよみなおす」2005年、筑摩書房)。

(2)前田家藩主の功績

 戦国時代、いつ滅びてもおかしくなかった前田家は、23万石から江戸時代には加賀百万石になり、外様大名でありながら、抜群の存在感を示していた。さらに明治維新後は華族の侯爵家として存続した。こうした激動の時代を生き抜いた前田家は、時代の勝利者であったといえよう。

 その一方で歴代の前田家藩主は、加賀藩を豊かにし、さらに文化水準を高めるため、楽市楽座を推進するとともに、伝統芸能、伝統工芸の推奨に努めた。漆塗り、加賀友禅、金箔などの伝統工芸品は今も現役で魅力を放っている。

 さらにそれらの魅力は、日本国内にとどまらず、広く世界に及んでいる。

(3)朝市

 輪島では朝市が有名である。岐阜県高山市の飛騨高山朝市、千葉県勝浦市の朝市と並び、日本三大朝市のひとつである。輪島の朝市は最も歴史は古く、その起源は平安時代といわれている。当初は神社や祭礼日などに生産物を持ち寄って物々交換していたが、貨幣の流通により、交換の場から商業市場と発展した。明治時代以降毎日市が立つようになった。

 この間朝市は、過去の地震において大きな被害を受けたが、見事に立ち直っている。朝市を実質的に運営しているのは、女性たちである。女性たちの粘り強い努力がなければ、朝市の復活はありえなかった。

 今日では朝8時頃から「朝市通り」と呼ばれるやく360メートルの通りに約200軒の露店が並び、生鮮食品、野菜、輪島塗などの民芸品などが販売されている。懐かしくも新鮮さを感じさせる能登の風物詩となっていた。

(4)奥能登の景勝地「白米千枚田」

 奥能登を代表する観光スポトである「白米千枚田」は、400年の歴史があるといわれる。壮観な風景が守られてきた背景には、多くの人たちとの縁があった。一時期耕作放棄地に近かった時期があったが、1982年に愛媛県の高校生が10年をかけ修復し、その後保全する機運が高まった。2001年には日本の名勝となり、11年には日本で初めて世界農業遺産に指定された。

 こうした活動は現在も続けられており、2007年にはオーナー制度が始まり、現在個人、企業が300件近く参加しており、その約半数が首都圏といわれている。

2.復興に向けて

 能登は過去に大地震を2回も経験している。それでも見事に復興を遂げている主要な要因は、上記でみたような能登の持つ特有の歴史性、風土性があげられる。

 すなわち、①江戸時代以前から、企業家的精神をもつ有能な人が多く存在している、②激動の時代を生き抜いた時代の勝利者である前田家の精神を引き継いでいる人が多い、③伝統芸能、伝統工芸および千枚田、朝市の魅力は、もはや能登だけでなく、世界に愛されている。④またこれらを支えてきたのは、能登の人たちの粘り強さに加え、全国のファンである。

 今回の地震は、前回の地震とは比較できないくらい規模や被害が大きい。多くの文化財、千枚田、朝市を含め全地域に甚大な被害を受けている。このため地元の人、自衛隊、消防署、自治体、警察などが一丸となってライフラインの復旧、被災者支援などを目指し日夜努力している。

 加えて能登の地勢から迂回ルートがなく、また液状化現象などで道路の破損が大きいことなどから、復旧に必要な自動車や重機などの利用の制約が大きく、作業を一層困難にしている。今後も余震や予期せぬ事態が発生する可能性もあり、復旧には相当な時間と労力を要するとみられる。

 しかし能登の持つ歴史性や風土性が、今回の災害も乗り越える力となるだろう。多くの人びとから愛されている能登を決して絶やしてはならない。政府も11日能登半島地震を「激甚災害」に指定することを決定した。これにより道路や港湾、農地のなどの復旧事業が促進される。一方で全国から支援の輪が広がっている。

 現在和倉温泉の源泉が復活し、小学校でも再開したところもでている。少しづつではあるが、復興の兆しが現れつつある。筆者は現在ただ茫然とみているしかないが、いずれ夫婦で能登の温泉に浸かり、朝市を訪れ、千枚田から日本海を眺めてみたい。頑張っている人に頑張れという言葉をいってはいけないという人もいるが、それでも能登の人たちに「ガンバレ」といいたい。