わが国は稲作を中心とする農耕社会が形成され、しかも海によって周囲の国から隔てられた定住社会である。こうした背景から、①日本は孤立した島国である、②日本人は内向き志向である、③農耕民族は自給自足を営む孤立した社会である、といった認識を持つ人が多い。

 そこで今回は、平地の稲作だけでなく、海や川の果たしてきた役割に目を向けたとき、どのような景色がみえてくるか歴史を追ってみることとする。

1.わが国の変遷

(1)旧石器時代

 旧石器時代の人々は、狩りや採集を生業にして、一定の地域を移動しながら生活していた。石材の材料は身近な場所から採集していたが、南関東地方の人々は、石器の材料となる黒曜石を伊豆諸島の神津島から船で運んだ記録がある。これは新石器時代に行われていた地中海沿岸部における海上輸送より早く、世界最古の例といわれている。縄文時代には、太平洋や日本海の沿岸部において、海上輸送が行われており、当時利用された「丸木舟」の一部が出土されている。

(2)縄文時代

 縄文時代にはすでに大陸の文化や技術が、朝鮮半島の東岸から対馬、壱岐、北九州などに伝わり、南岸から沖縄から山陰、瀬戸内海へと広がた。同時に広域的な人的交流も拡大した。

 日本列島内でも、海を利用して様々な物資が移動していることが分かっている。ヒスイのような祭祀に使う貴重なものは、産地の新潟県糸魚川近辺から北海道や近畿地方に至る広域な地域に運ばれており、太平洋や日本海の沿岸部では海上輸送も行われるようになった。

(3)弥生時代

 弥生時代には稲作が始まり、農耕社会が成立した。紀元前3世紀頃からさらに中国大陸や朝鮮半島から多様な文化が流入し、また青銅器をはじめとする多様な製品や、畑作、養蚕、織物などの技術が入ってきた。

 その後、青銅器などは国内生産が行われ、各地に製品が流通するようになった。当時の交通路は海、川が基本であり、日本列島を横断する通路は、沖縄ルート(沖縄→北九州→日本海→北海道)、瀬戸内海ルート(瀬戸内海→大阪湾→淀川→宇治川→琵琶湖→北陸→日本海→北海道)、さらに一部ではあるが太平洋の海上ルートも整備された。

(4)古墳時代

 古墳時代になると、中国大陸、朝鮮半島との対外交渉が積極的に行われ、それに伴い航海技術が進み、船も大型化した。同時に大陸から多様な文明と技術が入ってきた。とくに馬と牛の流入は、その後の交通手段として重要な役割を果たすことになる。また中国の文字である漢字の使用も始まったといわれている。漢字から万葉がなが生まれ、続いて片仮名が登場した。

 6世紀頃になると、儒教や仏教も百済などの朝鮮半島の国々から日本列島に伝えられた。またこの時期には遣隋使、遣唐使などよる中国大陸との国家間の交流が盛んになり、交易、商業、金融などがさらに活発化した。ちなみに今日のわが国の食生活で欠かせない豆腐は、遣唐使によって伝えられたという説もある。

(5)奈良・平安時代

 7世紀後半になると、中国唐朝の律令制度が取り入れられた。律令制度は全国を支配するため、新たな交通制度と交通路の整備を進めた。これまで陸上交通を基本とする交通制度が強制的に導入された。

 交通体系としては、奈良の都(平安京)を中心に七つの道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)を整備した。幹線道路は幅6~12メートルで、30里(16キロメートル)ごとに伝馬をおく伝馬制が敷かれた。この制度は江戸時代に導入された五街道、伝馬制の基本となっている。同時に運搬具(人、馬、牛)を使用した輸送を行う専門業者が誕生した。

 しかしながら、陸上交通の不便さが表面化し、重量物の運ぶために海と川の輸送が認められ、再び水運が主流となった。これは平野が少なく山脈や河川の比重が圧倒的に多いという日本列島の自然条件からみれば、当然の成り行きであった。

 一方10世紀に唐が滅びると、遣唐使も消滅し国家間の交流がなくなったあとも、国家とかかわらない分野(民間)で大陸、半島との交易、商業、金融の活動が再び表面化した。列島内においても海、川の交通による人、モノの流通が盛んになり、都と各地域との間だけでなく、地域間独自の交易、流通が盛んになった。民間の社会間の交流は、むしろ遣唐使の時代の時より活発化したのである。

 遣唐使廃止後、まもなく民間による日宋貿易(10世紀~13世紀)が開始され、両国の交流は盛んに行われた。宋から輸入された高級織物、香料、宋銭、書籍などは、その後のわが国の経済や文化に大きな影響を与えた。

(6)鎌倉時代

 鎌倉幕府による領土拡大に伴い、列島内では海や川を利用した輸送の遠隔化が進み、中国の宋や元からの陶磁器や銭などの輸送が増加し、経済の発展に貢献した。同時に主要な港では、問丸(といまる)と呼ばれる商品の輸送、保管、販売を行う事業者や借上(かしあげ)と呼ばれる金融事業者が現れるなど充実化が進められた。

 鎌倉時代半ばの1274年と81年の二度にわたって、モンゴル(元)軍の本格的な蒙古襲来(元寇)を受けたが、いずれも退けた。これを契機に幕府は西側一帯の警戒態勢を強化した。

(7)室町・戦国時代

 室町幕府は、明国との日明貿易(勘合貿易)が開始されるなど、大陸、半島との交易が盛んになった。さらにポルトガル人による鉄砲伝来は南蛮貿易を一層盛んにした。織田信長や豊臣秀吉によって南蛮貿易が保護されて、南蛮船だけでなく、日本の船も東南アジアへ進出した。やがて江戸時代になり、鎖国が行われたが、その後も長崎を通じて世界との交流を続けた。

(8)江戸時代

 江戸幕府になり、律令制度に似た五街道の整備と伝馬制度が導入された(前回ブログ参照)。これらの制度は陸上の公用交通を前提としていたため、生産や流通の発達に対応した大量輸送は不向きであった。そのため大量輸送については、相変わらず海、川を利用した水運が主流であった。

 海運では大坂と江戸間において、民間によって菱垣廻船(日用品の輸送)、樽廻船(酒の輸送)が運航された。大阪から松前地方(北海道)間においては、北前船(日本海を利用する西廻り航路、太平洋を利用する東廻り航路)が開設された。

 ちなみに山形の名産である紅花や米などは、産地から最上川を川船によって川口港である酒田へ運び、そこから北前船によって京都、大阪へ輸送された。

 西洋の学術、知識については、幕末になると鎖国下にあっても、長崎を通し研究意欲が醸成され、世界の地理、物産、民族などを説いた新井白石、西洋医学の解剖書をまとめた解体新書で有名な前野良作、杉田玄白など多くの学者を輩出している。

 さらに庶民の教育機関として、寺子屋が各地でつくられ「読み・書き・そろばん」などの日常生活に必要な教育が行われた。

1854年ペリー来航による日米和親条約締結後、欧米の学問や技術が急速に導入された。日米修好通商条約、安政の大獄、桜田門外の変で主役であった井伊直弼が咸臨丸によってアメリカに使節団を派遣している。

 かつて中国との遣唐使はあったが、当時の政府の高官が太平洋を越えて、アメリカ大陸へ行くことは考えられなかったに違いない。この時期に使節団をアメリカに派遣させたことは、井伊直弼の残した事業のなかで特筆しなければならない。咸臨丸には勝海舟、福沢諭吉などが参加していたが、その後の日本近代化に大きな影響をおよぼすことになった(詳細は第2回ブログ参照)。

2・歴史を振り返って

 上記で示した歴史から、①日本は孤立した島国である、②日本人は内向き志向である、③農耕民族は自給自足を営む孤立した社会である、といった意見の検証をしてみよう。

(1)日本は孤立した島国ではない

 日本列島は、多くの島々から成り立っており、これらの島々は海によって結びついている。そのためわが国での船の利用は古く、運行技術も優れていた。国外との交流は縄文時代から行われており、それらの大陸文化は海や川などを通して国内に伝わった。

 奈良時代に中国から取り入れた律令制度の仕組みは、今日の交通、教育制度など社会のすべての面で大きな影響をおよぼしている。その後もますます大陸との交易は拡大させた。鎖国時代においても長崎を通して海外とのつながりを持ち続けた。

こうした事実からみれば、わが国の社会は、当初から交易によって成り立っているのであり、自給自足の社会は最初から存在しなかったのである。たしかに海が人と人を隔てる障壁の役割があったが、それは地理的一面の見方である。海を機能面でみるならば、人と人を柔軟に結ぶ交通路としての役割を果たしてきおり、日本は決して孤立した島国ではないのである。

(2)日本人は内向き志向ではない

 海外との交流を高めるためには、必ず文字が介在する。中国大陸、朝鮮半島から入ってきた漢字は律令国家の文書主義の採用により普及し、それがまもなく平仮名、片仮名が誕生した。それぞれ違った歴史を持つ三種類の文字が日常的に使われるような国は、日本以外では存在しないと思われる。

 日本人はよく識字率が高いといわれる。その背景には日本人は自らの風土に適応する文字を作り出す能力があり、そのため文字が一般に普及するのが早く、識字率が高まったとも考えられる。さらに江戸時代の寺子屋制度がそれを促進させた。

 鎖国時代であっても、オランダ、中国、朝鮮との交流が継続されており、これらの国を通して西洋の学術、研究、文化などの知識を入れてきた。次第に西洋文明を取り入れた新しい学問や生活の道を開こうとする動きが活発化し、それに伴い西洋諸国との交易を望む人々も増えた。識字率の高さがそれを促進させた。おそらくペリー来航がなくても、いずれ鎖国政策は崩壊していたと思われる。また日米和親条約の締結後まもなく、幕府はアメリカに派遣団を送っている。

 こうしてみると、日本人は古来海外との接触を閉ざしたことはなく、常に新しい情報を求め、それらを日本に適応できる形にして普及さしてきたことがわかる。日本人は内向き志向であるというのは間違いである。

(3)一概に農耕民族は自給自足を営む孤立した社会といえない。

 農耕民族について、ジャレット・ダイアモンド(カリフォルニア大ロサンゼルス校教授)が次のように述べている。

 「農耕民は恒久的に田畑のそばにとどまる。好むと好まざるとにかかわらず、隣人と絶えず付き合っていかねばならない。同じ農耕民でも、日本のような水田稲作と、灌漑の必要がない欧米のような小麦栽培とは大きく違う。

稲作農家は精巧な灌漑システムを築き、それを維持するために協力する。田植えや刈り取りをいつやるか合意して、作業を短時間で済ませるため、重労働を互いに手伝わなければならない。隣人とうまくやれない農家は、追放されて飢えにさらされることを覚悟しなければならない。

 小麦栽培の農家は、稲作ほど協調を求められない。~略~自然災害の頻度や人口密度、資源の有無に応じて、人々は協調したり、個人主義になったりする。稲作への依存、頻繁な自然災害、高い人口密度、限られた資源というという四つの要因で、日本は強い協調が求められる社会になった。」(読売新聞、「地球を詠む」21年11月21日)。

 農耕民は恒久的に田畑のそばに止まることから、自給自足を営む孤立した社会であるであるとみる人が多い。しかし同じ農耕民であっても、日本のような水田稲作と小麦栽培とは性格が異なる。水田稲作の場合、小麦栽培以上に隣人との協調が求められ、日本特有の風土を有する地域では、なおさらそうである。

 わが国は農耕民族であるが、その中心が稲作であるため、自給自足の社会であっても、近隣の人たちと協調があってはじめて成立しているのである。孤立した社会では成り立たない。一概に農耕民は自給自足を営む孤立した社会というのは誤った虚像といえる。

3.モノの見方と考え方は多様である

 人々が同じモノをみたら、同じように感じていると思うかもしれない。しかし同じ風景でも、みる角度や視点により、まったく異なる。厳密に考えると、100人いれば100通りの風景があるということである。

 逆の見方をすれば、「唯一正しい回答」があるという考え方は、危険であるということである。社会活動、社会問題が複雑になった今日では、唯一正しい回答では、解けるはずがない。視点が変われば、回答も変わる。学ぶ方も教える方も複数の回答が必要である。

 交通は人間の行為であり、その判断基準は多様である。また立場によって利害が対立する。こうした分野では、とくに様々な視点からみる能力が不可欠である。