「陽炎」

 

永遠無限から発した躍動

その躍動は陽炎となり

永遠無限の中に顕れる

 

そうして陽炎は

時を刻みはじめる

それを

私たちは「世界」と呼ぶ

 

私たちの誰も彼もが

永遠無限の存在の中に顕れる陽炎

世界(陽炎)を顕すも

世界(陽炎)を味わうも

世界(陽炎)を観るも

姿なき形無き名も無き、永遠無限

 

他も無く

内も外も無く

上も下も無く

時間も無く

はじまりも終わりも無い

ただ「在る」のは

姿無き形無き名も無き永遠無限

その永遠無限こそ私たち

私たちはおなじもの

陽炎もおなじもの

だからこそ愛おしい陽炎

全てがワタシであり永遠無限

 

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↑は、

二年ぐらい前に

SNSへ投稿したものですが、

今日は

この陽炎の投稿とリンクした話を。

 

とあるブロガーさんの投稿を

偶然読みまして

自分の中で何十年も

長く引っかかっていた事が

まるで糸が解けるように

私の中で繋がってきました。

同じ気持ちの人がいた!という事と

そうか、これだ!という思い。

そのブロガーさんには

喜びと感謝でいっぱいです。

 

 

さて。。。

創造しようとするとき、

こうしたい、という意思が

まず必ずあるはずですよね。

その意思って言い換えれば

エネルギー、または情熱とも言えます。

それは「火」とも

言い換えられるんじゃないでしょうか。

 

つまり

創造は火(陽とも言います)。

※陽=日、光も意味する。

→暖かい、温かい。

陽は、能動(男)であり

放出、拡大していく事 。

左回りのエネルギー。

 

創造は

陽の力を放って創られる。

それがこの世界(万物)。

放たれ創造エネルギーは拡散する

空に放ったエネルギーは

冷やされ→固まっていく→

創造世界が顕れる


それは「水」に置き換えれば

分かりやすいんじゃないでしょうか。

空気は冷やされると、変化します。

水蒸気→水→氷となるように。

 

つまり

万物(創造物)は陰(水)。

※陰=光が届かない部分も意味する。

暗い、冷たい。 

陰は、受動(女性)であり、吸収、収束していく事。

右回りのエネルギー。

 

◎創造と創造物は対の鏡◎

 

ということは、

 

創造(左回りの放出)

鏡の反転

創造世界(右回りの吸収)

 

 

 

言い換えれば、

 

火の創造

反転

冷やされ固まり創造物が顕れる

 

ということかなと。

 

 

以前ネットで、

カバラの

セフィロトの樹の画像を見たのですが

水と炎が、てっぺんの両端に

描かれていたのを覚えています。

その画像は

もう今では見つかりませんが、

セフィロトの樹の画像を見てみると、


●左側にある峻厳の柱は

女性原理/縮小・収縮のエネルギーを

表してますから、

水をイメージさせます。

●右側にある慈悲の柱は

男性原理/拡大・膨張のエネルギーを

表してますから

火をイメージさせます。


そして、セフィロトの樹を見ても

火(原型の世界/意志/創造主)→

風(創造の世界/知性/霊)→

水(形成の世界/情緒/魂)→

土(活動の世界/有形/肉体)

と、上から段階的に密度を増しています。

つまり

人も含めて、

世界が段階的に固体化(分離意識化)

していく様が見て取れます。

これを見ても、

火と水が関係しているのが分かります。

物質(肉体)世界は、

陰の最たる世界のようですね。
 

 

創造世界とは

絶えず躍動し変化している

有限・無常の世界であり

生から死までのプロセスを

繰り返しています。


出会いがあり別れがある

痛み、悲しみ、苦しみ、を味わい、

幸を知る。

病気を味わい、

健康のありがたさを知る

そんなふうに

常に対極を行き交う振子。

極と極の引力の振子。


この創造世界はそんな、

陰(引)力の仕組みによって

成り立っている。

 

そして私達は

この世界で

この「陰(引)力」を知るほど

振子(無常)を恐れるようになる。

喪失、痛み、苦しみ、悲しみ、など

エネルギーを消耗するような事を

恐れる。

陰(引)力とは吸収する力。

それ故、

力を奪われる、

エネルギーを消耗する、

ものなのかもしれません。

 

では、なぜ恐れるのか?

もしかしたら

人は無意識的に

自分が不完全に感じているからかもしれません。

 

でもちょっと、想像してみてほしい。

創造は躍動

躍動とは、

どこから→どこかへと、

向かう動きそのもの。

一つになろうと求め、引かれ動く様。

それは

不完全さが故に起こる運動。

世界が躍動しているのは不完全だから。

でなければ躍動など起きない。

完全であるならば躍動は起きない。

何かを求め動く必要など無いから。

完全とは静止、時さえ無いのです。

 

だから

創造世界は

はじめから不完全であって当たり前。

そういう世界だから。

そしてその不完全に身を置く私達が

無意識に

自分の不完全さを感じるのも当然。

だからこそ、

どこかでその欠乏を補おうと

何かを追い求めてしまう。

そうして

不動の完全さを世界に希求する。

自分を補おうと外から何かを希求する。

されど

世界は変わらないだろう。

だってそのような仕組みだから。

不完全さが世界を創るのだから。

 

でも私達の多くが

とても大切な事を

忘れてしまっている。

それは、

私達は創造物として

この創造世界に顕現しているけれど、

同時にまた

「創造者」である、ということ。

「陰」に身を置きながらも

「陽」の存在だという事を。

 

私達は

肚に、

意思という創造の力を持っている。

そこに

創造のエネルギーが宿っている。

創造の力が目覚めると

ほわっと火が灯る。

肚に段々と熱を帯びてくる。

肚から湧き上がるように

エネルギーが湧いて膨らんでいく感覚。 

 

それは 

熱であり力であり 

想いそのものが力を持った感覚。

目に見えないけれど感じる。

己の肚を起点にエネルギーが溢れ出す。

これが、放出、拡大する陽の力。

創造者は、実は自分の中にある。

そしてこの陽の力こそ

はじめから

我々に宿っていた力だと思うんだ。

 

すごい事だなと思う。

だって私達は 

この陰の世界に身を置きながらも 

自ら台風の目の如く

陽を放つ創造者になれるのだから。 

 

でもこれはもしかしたら

最初から

そういう流れになっていたのかな。

陰を味わうからこそ 

自らの陽を思い出し目覚める流れに。

そしてこの一連のプロセスが、 

実ははじまりから 

創造主の

仕掛けだったのかもしれないね。

 

創造者が放つ炎が

陽炎となって創造世界を顕す。

創造って、

なんだかとても情熱的じゃない?

 

 

 

それから。。。

人間は無意識的に意識的に

必死で何かを求めて止まない。

何かで満たそう、満たそう、とする。

何か足りない、と

絶えず欠乏感を抱いている。

でも本当は最初から、

完全さは自分の中にあったんだ。

不完全さの世界に

自分が飲まれている間は

なかなかそうと気づけないけれど、

自分は既に、最初から、完全だった。


ただ、

不完全という創造世界を、

自らの陽の力で創り出した陽炎を、

本物と信じ込んで、

完全な存在が、

陽炎で創られた世界を観ている事を

忘れてしまっているだけ。

陽炎は実在しないもの、

それを忘れてしまっているだけなんだ。

 


完全は

「在る」「真我」「全我」「根源」とか言うね。

不動不滅、不生不滅、不朽不滅、不増不滅。。。

そう、完全は永遠無限。

姿無き、境界無き、名も無い、もの。


これはただある日、

ハッと気づく事なのかなと思う。

ノンデュアリティで有名な方も、

私自身も、そうだった。


自分というものはこれ!と思っている

その観念を一旦全て忘れて、

純粋に自分の在りかを

静かに目を閉じ

辿り感じてみてほしい。

自分って、どれだ?って。

きっとハッと気づくと思うよ。

そこには

言葉では表現しきれないものがある。

でもそれが

私の正体だったって気づいた時

涙が溢れ出てくるかもしれません。

ちなみに私は笑い泣きしましたwww

 

そしてね

自分の正体が分かってしまうと

ふと思う。

完全から敢えて私たちは

この創造(陽炎)世界へ飛び込んだ。

それはなぜ?

不動・不変・永遠・無限の完全で

いるより 

無常の創造を、無常の体験を、

求めたからじゃないか?


ここ有限無常の中に 

我々が

そんな喜びを見出してやってきた…

ならば、

陰の世界(諸行無常)を

味わい生きながら

内なる自分は

陽でもありたいと、私は思う。

 

だって、 

完全に還るには

まだ早すぎると思うから。。。