「ちょっと来て」

と、バレンタインデーの昼休みに、小学校の廊下で成田美穂に呼び止められて、私は胸の鼓動の高鳴りが彼女にも聞こえるに違いないと思って、ひやひやした。緊張で手が震えそうなのも、涙目に成りそうなのも、彼女には分からないように、と懸命だった。

――頼む、いつものまま。普通の僕でいるんだ。

少年の私は体が、がちがちに緊張していて、そんな私からは不自然で『ぎこちない』動作や言葉が次々に出てきてしまう。

「ぼくを、どこへ連れて行くんだよ?」

「こっち。ちょっと、こっちに来て」

と成田美穂は、白く柔らかな手のひらで、初めて私の手首を握った。

これまで、成田美穂が私の背中を軽く叩いたり、彼女が肘で私の腕を小突いたり、運動会のフォークダンスでは手を握り合ったことはあったかも知れない。

けれども、私の肌と成田美穂の、女としての肌とが、しっかりと触れ合ったのは、あれが初めてだった。彼女に手を引かれて私は廊下を歩いた。足は浮いているみたいで、転ばないように注意するのと、格好良く歩きたいのとで、余計に緊張してくる。そのときの私は、その廊下が、恋の歓喜ではなく、少年の悲劇に繋がっているとは思いもしなかった。

忘れもしない、成田美穂は、私の手を引きながら、この上もなく美しく可愛らしい笑顔で振り向いて魅せた。

「森田くん、はやく来てよ。待ってるんだから」

「待ってるって、どこへ行くんだよ」

「あっちで、あなたにチョコを渡したい子が待ってるの」

と、歩きながら言った成田美穂の明るい笑顔が急に、黒い髪の少女の、後ろ姿だけの印象に変わった。

「……えっ?」

「あっちで森田くんを、ずっと待ってるんだから、その子。ねえ、早く来てよ。もっと早く歩いて」

私は、自分でも顔色が変わるのが分かった。さーっと興奮が冷めて、力が抜けた。

成田美穂は、私の手首を握っていた手を放し、そして、微かに舞い踊るかのような女の子らしい動作で立ち止まった。

「あたしの友達から渡すんだから、ちゃんと受け取ってよね。返したりしたら、だめだよ」

廊下の端に他の学級の、顔だけは知っているような女子が三、四人いて、その中の一人が、その名前も知らない女の子が、足元を見ながら、顔には露骨な恥じらいを浮かべて、私にチョコレートを差し出した。

横で見ていた成田美穂が、甘美な上目づかいで私の顔を覗き込み、

「ほら、ちゃんと受け取ってあげてよね」

と言った。残酷な儀式だった。

私は、その名前も知らない女の子からのチョコを黙って受け取って、笑顔も見せずに、自分の教室へ戻って行った。周りの男子や女子から、

「森田がチョコもらってる」

「えーっ、誰からもらったの」

「他のクラスの女からだな、おれ見てたぞ」

と、少しは冷やかされたりしたかも知れないが、そのあとのことは全然覚えていない。

 

成田美穂は、私の気持ちを知らないで『あの役』を引き受けたのだろうか。彼女が、

「あたし今ちょうど、その森田くんと席が隣りだし、ちゃんとチョコを受け取ってくれるかどうか、あたしが訊いておいてあげる」

と、あの恥ずかしそうにチョコを差し出した子に話したであろう光景を想像してみた。

――成田美穂は、私の彼女への期待や恋心に、まったく気づいていなかったのだろうか?

いや、そんなはずはない、と私は思った。まだ子供のような少女ならいざ知らず、成田美穂のように早熟で、まもなく蕾から大きく花開こうとしている少女が、少年の恋心に気づかぬはずがない。乙女心が、もう確かに芽生えているであろう少女。自分の美しさに気づき、それに少年は魅了されずにはいられないものだと知ってしまった成田美穂が、私の恋心だけを見逃すことはないだろう。彼女が目を開ければ、私のような少年は、花の周りに集まってくる蝶や蜂のようなものとして、自然と彼女の輝く瞳に映るのだ。

――わざとしたんだ。

しかも、私の気持ちに、わざと知らぬ振りをしただけではなく、その恋心を最も絶望的に拒むために、あんなことをしたのだ。年賀状の約束も、期待を煽ったのも、私の手首を熱く握り、甘い視線を向けて誘うように廊下を歩いたのも、無邪気で純粋なように見えたから余計に、すべて、あまりにも残酷な仕打ちだった。

あれこそ、少年時代の悲劇だった。