自伝連作小説『少年時代(6)』

テーマ:

 

 

 

 六年生の夏休みの二カ月ほど前、あれは恋を知るのにふさわしい、うららかな或る春の日。忘れもしない、小学校の体育館で行われた映画鑑賞会でのことだった。

それは道徳授業の一環だったのか、とにかく私たち生徒はみんな、体育館の床に膝を抱えた体育座りで並んで、文部省が監修しているような、とても清潔な映画を見た。教育テレビ『中学生日記』の小学生版みたいな映画で、上映時間は小一時間。母子家庭の母親と小学生の息子の絆の物語だった。授業時間とはいえ、勉強ではなく、ただ映画を観るだけと知って私たち生徒はみんな、それはもう教室から体育館への移動中も、休み時間のような大騒ぎだった。まあ小学校は、授業中、給食中、学校行事、課外授業いつでも、どこでも大騒ぎの真っただ中であったと思うのだが。

上映前に、教師たちが体育館の全ての窓にカーテンをひき、生徒たちは真っ暗な中で座って居ることになったから、もうどうしようもなく抑え切れないほどに、わくわく楽しくなって、闇の中で興奮は最高潮だった。

映写機が動き出して上映が始まるまでの間は、教師たちが何度も何度も声を張り上げて注意しても、みんなの大騒ぎは静まることはなかった。私も周りの同級生たちと、ふざけ合っていた。前や後ろの男子を小突いたり叩いたり、隣りの女子にも、ちょっかいを出したりしていた。

私は学級の男子の中で背が高い方だったから、列の後ろの方に座っていた。成田美穂も発育の早い女の子だったのだろう、女子の中で背が高かった。成田美穂も女子の列の後ろの方で、私の隣りに座っていたのだ。やはり私は、成田美穂とも上映開始直前まで、ふざけ合っていた。いよいよ映画が始まっても、ちょっかいを出す私に、

「森田くん、もう、やめてよ。しっ」

と成田美穂は、唇に人差し指を添えて私に注意した。私は、その何か大人びた成田美穂の『しぐさ』と少し怒った顔に、はっとした。兄しかいない私だったが、お姉さんに叱られたような気がして胸が高鳴った。

 恋心を抱いているその心とは裏腹に、私は意地悪っぽく成田美穂を、また軽く叩いた。

 今度は成田美穂も悪戯っぽい笑顔を浮かべて、

「ちょっと今どこ叩いたの。胸のとこ叩いたでしょ。森田くんエロいから、ほんと嫌い」

と私の二の腕の辺りを叩き返してきた。

 私は、その頃からエロいことで学級内でも有名だった。けれども、子供だったから、私たちの誰も『エロい』の本当の意味するところを、まだ知ってはいなかったのだが。

「エロいことばっかり言ったり、したりしないで、ほんとに、もう静かにしてよね。あたし映画見てるんだから」

暗闇の中に、成田美穂の横顔が、映写機からの光線と、映し出された画面からの反射光に浮かび上がって見えた。細く通った鼻筋と小さな顎。少し垂れ目の、いつでも甘えているような可愛らしい円らな瞳。さっき成田美穂から叱られたときの、体が、ぞくぞくっとして、くすぐったいような感じが、私の全身に、いつまでも消えないで残っている。

――もっと、叱ってほしい。

 私は成田美穂の、弟をたしなめるような、ませた『お姉さん』の顔がどうしても、もう一度見たくて、ちらちらとその横顔を盗み見ていた。ふっくらっと艶やかな頬が暗闇の中で白く滲んで見える。桃色に浮かんでいる唇の膨らみの可愛らしさ。彼女の、目を瞠って懸命に画面を見つめている黒く潤んだ瞳の輝きに、私は、たじろいだ。暗黒の中で胸が激しく騒いだ。

 

 成田美穂という少女は、六年生の初日に編入してきた転校生だった。

 でも少年の私には、四月の始業式のあとの学級内で、成田美穂の転校生としての挨拶とか、私が彼女を初めて見たときの印象なんかの記憶は全くない。私にとって、成田美穂は普通の転校生で、そのままただの同級生女子の一人になっただけだった。私が彼女を特別な存在だと気づかなければ、それは何も変わらないはずだった。しかし、ある時から、まだ恋を知らなかった私は、同級生の女子の中に、こんな女らしい子がいたんだ、と驚くようになった。それが、どんなきっかけだったのかは分からない。もしかしたら、それは私の精通の直後だったかも知れないが、はっきりとしたことは記憶にない。もし正に精通の直後だったとしたら、やはり人間が恋に目覚めるきっかけも、決して神聖なものではなく、結局はただ肉体的成長と変化の結果ということになるのだが、どうだろうか。とにかく、ある時から急に私は、成田美穂の少し大人びた表情や髪形に恋した。体育授業のとき、他の女子たちとは違って、一人だけ転校前の小学校指定の横に二本の白いラインがある紺色の体操着を履いている成田美穂の腰回り、おしり、太ももの丸みがある肉付きを目で追っている自分に気づくようになった。彼女の体の動きは、いつでも舞い踊っているかのように私には見えて、私は彼女の表情、しぐさ、笑い声、小走り、そのあらゆる瞬間の虜に成ってしまった。

 

映画の上映中は、みんな割と静かに黙って映画を見ていた。映画のスクリーン、といっても体育館の舞台の垂れ幕に白い布を吊っているだけだったが、そこに映画の『終』の文字が浮かぶと生徒たちはみんな、

「さあ今だ、暗いうちに」

とばかりに、うずうずしていたものを一気に爆発させて思いっきり、ふざけ合った。その喧騒は凄まじかった。

上映は完全に終了し映写機が止まると、暗闇はもっと暗い闇になった。

あれは、教師たちが体育館の窓のカーテンを一斉に開けた時であった。突如、白い闇が降ってきたようで、高い窓から飛び込んできた日光の眩しさに、私は思わず目を伏せた。

そこに成田美穂が座っていた。

でも私が最初に見たのは、成田美穂の顔ではなかった。眩い光が差す体育館の床に、少女が無造作に座っている。その膝を抱えて座っているスカートから覗いて見えた、仄かに水色の下着。私の眼は、その水色の下着に、くぎ付けになった。どうして、その淡い水色の丸みのある形に、そんなに強い衝撃を受けるのか、自分でも理解できなくて惑乱した。ただ私は白い光を浴びながら、その淡い水色の膨らみと、成田美穂の健康的に少し陽に焼けてはいるが白く滑らかな内腿の肌に、全身が痺れるような刺激を感じ、頭の中にまで白い光が差し込んでいるかと思うほどの眩しさを感じた。

それまでにも、女の子の白い下着を見て、はっと興奮している自分に気づいたことがあった。どうして急に、そう感じるようになったのか。なぜこんな一瞬息が詰まって胸が苦しく、下腹部が、かっと熱くなるような感じがするのか。その形を見ている自分が、何をどうしたいのかが分からなくて、もどかしい思いだけがあった。

しかし今、成田美穂の下着が純白ではなく、少し光沢のある淡い水色だったことに、頭の中の何かの歯車が初めて、ことりと動き出した。性が脈動し初めた。

どれくらいの時間、私は、その淡い水色の下着を見ていただろうか。

おそらく、ほんのわずか数秒だ。それでも眼に焼き付くほどに、私は、その水色の下着を凝視したのか。いや、そんなはずはない。そのような視線の集中を、少女の恥じらいが見咎めぬはずがない。たぶん一瞬の一瞥で、その水色の下着は私の目に焼き付いたのだ。

実際には私は、すぐに顔を上げて成田美穂の表情を見ただろう。

そこには、私からの股間への視線などには気づいてもいない、純真で無垢な女子の笑顔があった。無邪気で、まだ粗野でさえある少女。ようやく女性として色づき初めた、花開く前の蕾。成田美穂の瞳や唇は元々大人びて見えるが、その身体はまだ豊かに肉が満ちる前の青い果実だった。

そして、体育館の二階の窓から差し込む白い光に照らされて、成田美穂の左の頬に浮かんだ笑窪に、私は思わず眼を奪われた。今でも忘れられないほどに、まさに雷に打たれたかのように激しく、私は、成田美穂の左頬の笑窪に恋したのだ。成田美穂の笑った口から覗いて見えた小さな歯も、この上なく新鮮で清潔で、白く輝くように見えた。

――しまった。いけない。

さすがに、私のそんな視線の集中には成田美穂も気づかぬはずがない。私は恋していることを隠そうと、すぐに無邪気な少年に戻って、映画上映前に彼女に仕向けていた『ちょっかい』の続きをし始めた。

成田美穂も、ふざけたい気分だったようで、男の子か女の子か分からないような感じで、

「もう痛いでしょ。森田くん、なんでぶつかってくるのよ」

と私の体に強くやり返してきた。

 怒っている成田美穂の上目使いに少し睨むような表情にも、甘える女の子の柔らかさが消えないで、ちゃんとある。私は、成田美穂の顔や動作、声音や、その言葉の至るところに、やっぱり女の子らしい感触があることの不思議に、そのとき改めて気がついた。

――目の前に、女の子がいる。成田美穂は女の子なんだ。

成田美穂の笑顔が、もっと眩しくなって、まともに見ていられないほどだ。さっきまで、男子と同じようでしかなかった成田美穂の顔が、全然違って見えた。そして、その顔に、眼に焼き付いて離れない仄かに水色の下着の、柔らかそうな丸みのある膨らみが重なった。

女子たちと話しながら体育館を出て行く成田美穂の後姿を、私は夢から覚めたばかりのように、ただただ呆然と見送っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

AD