しかし、それぞれの虫籠に思いのままの昆虫を何匹も入れたのに、少年たちの遊び心は、まだ満たされてはいなかったのだ。私は昆虫狩りをしながらも実は、瀬上ノ沼で溺死した生徒のことを考えていた。誰かが一度そのことに触れたら、もう少年たちは、小学生溺死事件と瀬神ノ沼の『主』に夢中になった。

夏休みが冒険心を掻き立てたのだろう。そのまま私たちは夜の瀬神ノ沼へ向かった。

夜の森の闇は本当に恐ろしかった。夜に懐中電灯の明かりしかないのに、少年だけで森の奥にある瀬神ノ沼まで辿り着けたのは、瀬神ノ森には、市民が気軽に散策できるよう遊歩道が整備されていて、歩き易かったからだが、それでも真っ暗な森の影から迫ってくる静寂と、懐中電灯の光を遮る木立ちの向こう側の暗黒が怖くて仕方なかった。

瀬神ノ沼の前には、散策者のための、木組みの縁側みたいな休憩所があった。その岸辺から、小さな浮橋が沼の中に伸びている。浮橋は、並べて浮かべられたドラム缶の上に、板を渡したものだった。沼は、夜の深い闇の下に、満々と水をたたえ静まり返っている。自分の足音が、足下の橋の板に高く聞こえ、さらに下のドラム缶で反響して広がり、沼の底に木霊しているようだった。水辺の沈黙を破るのは、その音だけで、浮橋が振動し微かに揺れていることに内心、どきどきしながらも浮橋の先端まで行った。

月の影を映している沼の緑がかった黒い水面は幻想的で、風も無いので鏡のようだった。覗き込んでみても、自分の姿は映らない黒い鏡。高い所から下を見たときのように、体に力が入らず動けない感じなのに、なぜか引き込まれる前に飛び込んでしまいたくなるような変な衝動があった。

そんな恐怖に、少年たちがいつまでも堪えられる訳はなかった。闇の沈黙を破りたくて、みんな懐中電灯を振って滅茶苦茶に光線を走らせ、水面を明るく照らさずにはいられなかった。ただの沼が暗闇に浮かび上がったが、懐中電灯の白い光は水面辺りを照らすだけで、濁った水にすぐ明るさを失って、濃い緑から黒へと吸収され消えていく。水だけで他には何も見えないのが本当に不気味だった。

瀬神ノ沼は、地図などには『瀬神ノ池』と書いてあったし、湖と呼ばれるものに比べたら本当に小さな池だった。沼の一番奥までは懐中電灯の光が届かなかったが、もっと手前の岸には充分届いた。

切り立った崖の下の、沼が一番深くなっていそうな辺りを懐中電灯で照らしたとき、水に大きな影が映ったように見えた。巨大な黒い魚影が翻って、濃緑の水面に波紋が、ゆっくり大きく広がっていく。静かな波紋の狭間が、急に波立ってから盛り上がった。

私たちは大声を上げ、懐中電灯を振り回しながら一目散に逃げ去った。浮橋の板を蹴って走り、水辺の坂道を駆け上がった。手に持った懐中電灯の光線が、混乱を表すように滅茶苦茶に闇を走って流れ、みんな息が切れるまで逃げ続けた。魚影は、テレビなどで目にする鯨かと思うほどに大きかったが、これは少年の眼によって、どれほど巨大化されていたのだろうかと思う。

 

その夜が、あまりに怖かったので、

「やっぱり夜は、やめた方がいい。瀬神ノ沼へ行くのは昼間にしよう」

ということになった。とにかく、その後も何度か日中に、私たちは瀬神ノ沼の『主』を探しに行ったのだった。

あるときは、川沿いの砂利道を歩き、瀬神ノ沼へ向かっていた。

その日は、関という、そんなに仲が良かったとは思えない少年も、なぜか私たちの仲間に入っていた。軟弱でおとなしい関は、歩いているうちに遅れて、どんどん離れていった。不意に後方から、関の甲高い少女のような悲鳴が聞こえたので、私たちは慌てて、来た道を引き返した。すると関が、ずぶ濡れで立っていた。

「川に落ちたから帰る」

と関は言って、とぼとぼ一人で帰って行った。川を見ると、濁った水が澄んでくるにつれて、川底の泥に、くっきりと関の手と顔の跡が化石のように残っていた。

「あいつ川を覗き込んでいて、顔から落ちたんだ」

絶叫し顔面から川に飛び込むような関の転落の光景を想像して、少年たちは笑った。

また、あるときは、瀬神ノ沼へ向かう私たち仲間に、私の家の飼い犬、ジョンが付いて来たことがあった。

 

ジョンは、私が六歳くらいの時に兄が、近所で生まれた雑種の子犬をもらってきて飼っていた。私の家の初めての飼い犬で、日本犬と西洋犬が混ざったような、やや大型の犬だった。庭に長い鎖で繋がれて、父の手造りの犬小屋を持ち、毎日うまそうに喉を鳴らして、私たち家族の残飯を食べていた。幸福そうな犬だったが、ジョンには、もっと幸せなことがあった。

血気盛んな雄犬に成長したジョンは、発情の時期には毎夜、狂ったように雌犬を求めて遠吠えを続けた。その遠吠えをする雄としての狂おしい気持は、思春期になる頃には痛々しいくらいに理解できたのだが、少年の私はまだ、ただ喧しく近所迷惑だとしか思っていなかった。

深夜あまりにも吠え続けるときには、よく父がジョンの鎖を離してしまうことがあった。ジョンは喜び勇んで、飛び跳ねるように闇の中に駆けて見えなくなった。中型犬より大きいくらいの黒っぽい犬に、深夜ばったり道で遭遇した人は、さぞかし驚いたのではないかと思う。だが、ジョンは非常に人懐っこく利口な犬だった。人に対して敵意を示したり、威嚇して吠えたりすることはなかっただろう。

『夜遊び』したジョンは、空腹になったり、雨でずぶ濡れになると帰って来たりしたが、一度放すと二日三日帰らないこともあった。近所の人から、ジョンが雌犬のいる庭に入り浸って、その家の人が困っていたらしいとか、車を恐れるジョンだったが、ちゃっかり通行人の後について平然と横断歩道を渡っているのを見た、と聞いて家族で笑った。かなり遠い町で、ジョンによく似た子犬が何匹も歩いているのを見て、苦笑したこともあった。

 そんな我が家の犬ジョンが七歳にも成らずに死んだのは、私が初めて遭遇した衝撃的な、大きな死だった。『大きな』というのは、少年の私から見てジョンが、かなり大きな体をした犬であったからでもある。だが、それ以上に、あんなに長い間いつも触れ合って、その体温や、汚れた毛の匂い、生臭い吐息、よだれを近くに感じていたからだった。ほんの小さな子犬の頃から、いつも庭に遊んでいて、一緒に駆けたり寝転んだりした。私の顔を舐める犬の舌の感触と唾液。その毛並みを撫で、胴を抱いたり、口に手を突っ込んで牙を見たりした。幼少期、何よりも肌に近かった犬の死は、少年には衝撃が大き過ぎた。ジョンはもういない、というのが寂しくて、ただ悲しくて、どうしたらいいのか分からなかった。

最後の夜。そう、私は子供ながらにジョンの死の瞬間が、もうすぐだと知っていた。

昆虫や小鳥、小動物の死から連想して『死ぬこと』は分かるが、こんなに体の大きな犬、いつも家の前にいるジョンが、いま死ぬのは信じられない思いだった。

もう泣いても仕方がないし、その最期のとき、犬にとっては不治の病にかかり衰弱してゆくジョンを、私はただ見守っていたのだろうか。それでも懸命に生きようとするジョンの体に触れて、私は励まし続けていただろうか。

それは真冬の真夜中だった。玄関に毛布をひいてジョンを寝かせ、家族みんなで看病し続けていた。ジョンは、もう何も食べないし、苦しそうに水だけ飲む日々が続いていた。浅く早い呼吸をしながら眠っていたかと思うと、急に立ち上がり玄関の外に出たがった。苦しそうに、ふらふらと庭を歩いては、また玄関に寝そべって、ぜいぜいと呼吸した。

何日か前に、ジョンは初めて大量の血を吐いた。それから何度も何度も血の泡を噴いたので、私はもう、その鮮血を、嘘みたいに真っ赤な血の泡も怖くなくなっていた。

我が家の犬が、そのように急に弱り切って、元気な頃とは、まったく別の知らない犬になってしまったかのようで困惑していた。散歩のときに、私の持つ綱を力強く引いた体の躍動や、発情して狂ったように雌犬を求め続けた雄の野性は消えてしまった。ただ苦しそうに、立ったり寝そべったりして、血の泡を吐くことを繰り返すジョンを見つめながら、私は、はっと覚醒したような気がする。

――犬のように大きな動物は、そして人間は、こうして生きて死ぬ。

その瞬間、これを鋭く鮮明に記憶しなければならないと、私の頭の何かが起動した。

日常では考えられないような現実に直面し、神経が鋭く高ぶった興奮状態が続いていた。夜中を過ぎて少年の私は、ほとんど、その日の活力を使い切って眠気に負けていた。それでも、ジョンの吐血を片付け、口元の血の泡を拭ってやり、体を摩り続けた。凄惨な光景なのに顔を背けることなく、眼に焼き付けるかのように一晩中、ジョンを凝視していた。

夜明け前、もう本当に浅く弱い呼吸をしながらジョンは寝そべっていた。

しかし、突然、何かに呼ばれたかのようにジョンは、ふらっと立ち上がったかと思うと、卒倒するように崩れ落ちた。玄関の床の石に、ジョンの頭蓋骨が、ごちんと重く鈍い音を立ててぶつかった。もう絶息した口からは、まだ若く、鮮やかな桃色の長い舌が、流れ出していた――。

 

 これは、そのジョンが死ぬ半年ほど前だった。

真夏の陽の光が、空を覆い尽くす木々の隙間から洩れていて、不意に藪の中から黒っぽい大きな犬が、がさっと枝葉や草を割って現われた。まだ元気であった頃のジョンが、前の晩から近所を遊び歩いていて、ふと私の匂いを嗅ぎ取り、瀬神ノ沼へ向かって森を行く私たち仲間の後をつけて来たらしかった。

 藪の中に消えたかと思ったら、また遊歩道に現われたりして、私たちの周りを走り回っていたジョンは、かなり興奮していた。家の庭に寝そべっている時とは見違えるように、生気がみなぎっている。山の中で野性の血が騒ぐのか、飼い犬とは思えないほど異様な獣の姿を見せていた。

そして、瀬神ノ沼に到着したとき突然、ジョンは私たちの間を疾風の如く擦り抜けて、沼に向かって転がるように駆け出したかと思うと、そのまま水に飛び込んだ。夏の太陽が、ちらちらと散らばっている茶色っぽい濃緑の水面を、ジョンが滅茶苦茶に乱して飛び跳ね、縫うように浅瀬から深みへ入って行く。その姿を、私は竜のようだと思った。

まだ若い犬だから遊び心が旺盛だったのか、ざわめく血が巡る体の熱を、とにかく冷ましたかったのか。あれだけ全力で走り回っていたのだから、犬でも暑いのは当然だと私は思った。ジョンは器用な犬かきで沼の水面を、すいすいと泳いでいく。舟のように、きれいな『曳き波』を後に残しながら、得意気に泳いで見せていたジョンは、しかし沼の向こう岸の近いところに泳ぎ着くと、体を振り回して毛の水滴を撒き散らし、そのまま森の中へ消えてしまった。

 

 私たちは、夜の瀬神ノ沼で巨大な魚影を目撃した辺りを見下ろすために、その真上に当たる崖の上を歩いていた。

急斜面の、細い獣道を進んでいるとき、仲間の一人の横山が足を滑らせたかと思うと、崖から沼に落ちていった。危機一髪、横山は必死の片手に、木の根っこを一本掴んだ。黄緑色から濃緑の深みへと広がっている沼の上に、横山は宙吊り状態だった。

横山を、佐藤卓也たちが助け上げてからは危険を避け、安全な浮橋の上で、沼の主を探すことにした。沼の主は、巨大な野鯉である、と言うことで、私たちの意見は一致していたが、夏の静かな午後の水面に、巨鯉の姿は見つからなかった。

瀬神ノ沼を後にして、私たち少年は帰路についていたのだが、仲間の一人の中野が突然、私たちのいる山から、谷間を挟んだ向かいの山の中腹を指差した。

「あそこ見てみろ!」

「うわっ、なんかたくさんいるぞ!」

 山の木々の間に、走っている犬が見え隠れしている。一頭や二頭ではない。五頭、いやそれ以上いた。

「野犬の群れだ!」

と私は叫んでいた。

それはオオカミのような山犬ではなかった。野良犬が野生化して群れていたのだろう。しかし私たちは恐ろしくて、震え上がるほどに危険を感じた。

「こっちの山に来たらどうする?」

「ほんとだ、こっちに向かってるぞ」

 佐藤卓也が叫んだ。

「逃げろ!」

「あっ、待ってくれ」

少年たちは先を争って、お互いを押し退けるように、団子状態で必死に遊歩道を逃げた。そのうちに、あんまりみんなが馬鹿みたいに慌てて、卑怯にも互いの足を引っ張り、我先に逃げようとしているので、可笑しくなってきた。夢中になって、いつの間にか、みんな疲れ果て、見晴らし台のような所で『大の字』に寝転がっていた。息を切らしながらも、笑い合って本当に、あんな楽しかったことは他に、なかなか思い付かないほどである。

一息ついて私は、まだ森の中で遊んでいるかも知れないジョンが、あの野犬の群れに遭遇して、襲われたりしないだろうか、と心配していた。