岩山の頂上まで階段を登り終わった影虎と露姫は、汗を拭うと、頂上の山門を見つめた。その山門は長い間、風雨に晒されて、半分は朽ち果てているかのように古い。

岩山の頂上の台地は広大で、その北方は、遠くの峰々に連なって見える。しかし、山寺の荒れ果てた敷地は狭く、左右は森が空を覆っていた。寺の本堂の背後に滝があるようで、そこだけは木が無く、真っ蒼な空が天まで広がっている。

影虎と露姫は山門を潜り、激しく降り注ぐ白い光の中を、古くなり木造が黒ずんで見える本堂へと向かって歩いて行った。

 近くで見ると本堂は、とても古く何百年も前の物であり、その後の手入れの行き届いていないことが分かる。

影虎と露姫は立ち止まり、少し落胆しながら本堂を見つめた。

「露姫さま。ここは廃寺のようですね……」

「…………」

 その静寂を破るものは蝉の声と、本堂の向こう側から聞こえてくる微かな滝の音だけであった。

 しかし、露姫の背後にだけ動く物がある。真夏の太陽の強烈な光の中に、陽炎のような、ぼんやりとした人影が一つ、揺らめいて近づいて来た。

「この寺に何か御用ですか?」

 突然、背後から聞こえた人声に、影虎と露姫は驚き振り向いた。

「…………」

 その不意の接近に、思わず声を上げそうになった露姫だったが、動揺したまま、相手に対して何の言葉も出てこない。

 影虎は、露姫の前に立ち塞がるように足を一歩、踏み出し、目の前に現れた僧衣を纏った男の影に、

「貴方は、この寺の和尚さまですか?」

と問うた。逆光に慣れてきた影虎の眼に映っている男の顔が、だんだんはっきりしてくる。

 その黒い僧衣を纏った壮年の男は頷いた。

「私は、この寺の住職、玄有と申します。御二人は、旅の途中と御見受け致しますが、どちらの方から参られましたか?」

「玄有和尚。私どもは都から参りました」

「都? それは随分はるばる遠くから参られましたな」

「私どもは、この樹海を越えて行く道中なのですが、ご覧のとおり女子(おなご)を連れておりますゆえ、たいへん難儀いたしております」

一瞬、露姫に鋭い視線を向けた玄有は、すぐに微笑んで、

「都人(みやこびと)が、女人(にょにん)を連れて野を越え、森の中を、このような山奥まで旅するとなると、色々と御苦労が御ありでしょう」

「私一人なら根株を枕に一眠りと言うところですが、女子はそうはいきません。少しでも床の上で休ませたいと思っています。しかし、人里離れていて樵(きこり)の家一つ見つかりません。この寺の軒下を、しばし御借りする訳には参りませんか?」

「どうぞ。本堂の軒下とは言わず、母屋の中で御休みなさい。土間の横でよろしければ、そこに客人を迎える部屋が一つ在りますので、いくらでも長居されて結構です」

「それは、ありがたい御言葉」

 影虎は本堂の横の母屋や井戸を見回してから、玄有に懇願した。

「それでは、できますれば、今宵一夜の宿を御願いしたいのですが?」

「見てのとおり何も無い古寺ですが、どうぞ一晩とは言わず、疲れが取れるまで、ごゆるりと体を休めて居かれたら宜しかろうと思います」

「それは何より重畳」

影虎は露姫に顔を向けて、

「露姫さま。ありがたい御言葉ですね」

と同意を求めた。

 玄有は、影虎の視線が自分から離れるや否や、露姫の若く美しい顔を食い入るように見つめる。

 露姫は、玄有の鋭い眼光に思わず顔を伏せた。

 影虎は、露姫が黙ったままなのを心配した。

「どうされましたか? 露姫さま。ぜひ、このお寺に泊めて頂く事にしましょう」

「…………」

「よろしいですか?」

 ようやく露姫は顔を上げて影虎を見つめた。

「はい」

 露姫の返事を聞いた影虎は、玄有の方に顔を戻し返答した。

「それでは、その土間の横の部屋を、とりあえず今宵一夜、御借り致します」

「はい。どうぞ、こちらへ」

満面の笑顔の玄有は、影虎と露姫を母屋へ導こうと、先に立って歩き始める。

玄有の後に続こうとしていた影虎だったが、まだ露姫が立ち止まっているのに気づき、振り向いた。

「……どうしたのですか?」

「…………」

露姫は不安そうな表情を浮かべている。

「露姫さま。何か気に掛かることでも?」

「……いえ、べつに」

「しばらく野宿が続きましたから、今夜は何としても私は、露姫さまに屋根の下で休んで頂きたい、と思いますが」

「そうですね。ありがとう」

 母屋の方へ少し離れた玄有の後姿に、影虎と露姫は続いて行った。

 

 無限に広がっているような暗黒の闇夜に微かに見えるのは、わずかの月光に照らされた岩山の上の古寺だけである。その寺の、蝋燭の明かりだけで仄暗い母屋の書院では、影虎と玄有が、静かに対座していた。

 玄有は真剣な表情を少し崩して、口を開いた。

「そうでしたか。やはり、あの御方は、そのような切迫した状況の中から逃れて来た、都に名高い露姫さまなのですね」

「玄有和尚。どうか露姫さまのために力を貸して頂きたい」

「事情は全て承知したので、私にできる限りの事はして差し上げたいと思います。しかし、あの黒岩家の露姫さまと、その従者の御方だとは思いませんでした。初めて御二人を見た時には、てっきり旅の途中の夫婦(めおと)に間違い無いと思いましたが」

影虎は、玄有の当て推量を畏れ多いと思いながらも、嬉しそうな様子である。

「露姫さまと私が夫婦などとは、とんでもありません」

「いや私も、人を見る目は確か。あなた方が恋仲である事は、すぐに見抜いたのです」

「恋仲? まさか、違います。露姫さまが、まだ小さな頃に初めて御会いしてから、はや十年ほど経ちましたが、私は露姫さまの従者に過ぎません。しかし、命までをも捧げて御傍にいることは、恋人となんら変わり無いとは思いますが」

「ほお、命までをも捧げていると。それこそ恋の真の姿ですな」

 玄有は微笑した。