影虎
『都に戦乱の嵐が吹き荒れる前の、この時は、まだ黒岩家の広大な屋敷内にも麗らかな春の時が流れていた。
影虎は、寝殿の客間の隅で、黒岩家の遠い親戚で、長らく疎遠だったのに最近また大殿の勝元に会いに来るようになった惟近(これちか)と言う若者と、勝元の娘、露姫の真昼の面会を見守っている。
露姫と惟近は時節の挨拶を終えて、ただ黙って向かい合い座っていた。
まだ少女の面影を残す十四歳の露姫だが、この春に、その蕾が可憐な花と開くであろうことは、どんな男の目にも明らかだった。いつしか、娘盛りの露姫が放つ眩い輝きは、影虎の心に沁みる程の強い刺激を繰り返すようになっている。しかも、黒岩家の家臣に過ぎない影虎にとって、それは禁断の果実。目の前に在るのに、決して触れることは許されぬ果肉が満ちて、見事に実ってゆくような露姫の肉体を、ただ少し離れて見守ることは、彼にとって拷問に等しい。
惟近も、露姫に触れてみたいと言う思いは同じはずだが、そんな素振りは微塵も見せずに、貴族らしく言葉を発した。
「この黒岩屋敷の桜の木々が満開の折、思いも掛けず露姫さまに再会したことが忘れられずにいました。今日ここに足を向け、わずかの間に再び露姫さまに御会いできて本当に嬉しく思います」
「私も、久しく御姿を見ることの無かった惟近さまが、こうして、ここへまた来るようになったことは嬉しいです」
「実のところ私は、今日ここへ大殿の勝元さまに会うためや、官職の役務のことで来たのでは無いのです。私が、ここへ来たのは、露姫さまに、」
「惟近さま、他の者も聞いています。皆まで言わないで下さい」
「露姫さま……」
「…………」
露姫は、惟近の沈黙や、部屋の隅に座っている影虎からの注視にも堪えられなくなって、
「……それでは、また、いつか」
と、しとやかに座から立ち上がり、退室しようとした。
惟近は大胆にも立ち上がり、部屋を出て行く露姫との擦れ違いざまに素早く、彼女のその耳元に何事かを囁いた。
客間を出て、すぐに立ち止まった露姫は突然、影虎を見て、
「私は、これから庭へ出るので、女たちに支度をさせなさい」
と指図した。
影虎は、惟近の思惑に、まんまと乗った露姫の未熟さに唇を噛んだ。
黒岩屋敷の庭では、散り急ぐ桜の花弁が舞っている。
その花吹雪を見上げながら、池の畔の小路を歩く露姫を、影虎は少し離れた木立ちの間から見守っている。その影虎の目の前で、なんと惟近は大胆にも、また露姫に近づき、その耳元に囁いた。
「今宵、私は、あなたの許を再び訪れようと思います。どうか警護の者たちに話を通し、あなたの館の扉を閉ざさずに、私のことを待っていて下さい」
影虎は、その一瞬の秘め事を見逃しはしなかった。
そして、恥じらいに、頬を赤らめる少女を残して、何気なく立ち去ってゆく貴族の男の後姿を、影虎は心に激しい嫉妬の炎を燃やしながら見送っている。
この露姫の警護の武士は今夜、誰にも知られずに、貴族の男を陥穽(かんせい)に落とす策略を巡らしながら鋭く緊張していた。
春の夜空には満月が浮かんでいて、罠を張りながら、暗闇に潜んでいる影虎にとっては、恨めしい程に明る過ぎる夜だった。
闇夜に沈む竹林は、枝葉の隙間から漏れて来るおぼろげな月影の光線に照らされて銀色の淡い光を放っている。辺りは、飛び交う小さな虫や、風にただよう胞子、砂塵が、散りばめた金粉のように瞬いて、仄明るい幻想的な空間となっている。その銀色の竹林の狭間から、鮮やかな若草色の狩衣を着た惟近が現れ、露姫の寝所(しんしょ)へ向かって歩いて行く。
息を潜めて、惟近を待ち構えていた影虎は、竹藪の暗闇から飛び出し、惟近の目の前に立ち塞がった。
惟近は、真っ黒な人影に恐れおののき奇声を上げた。
「うひゃっ! なに奴だ!」
影虎は半歩前へ進み、月明かりで自身の顔を照らした。
惟近は、影虎の顔を一応は覚えていた。
「おっ、お前は露姫さまの警護の武士ではないか。脅かすな。露姫さまに命令されて私を迎えに来たな。よし、さあさあ、露姫さまの許へ案内しろ」
「断る」
「なっ何だと?」
「貴公のような下衆な奴が、露姫さまの処女の純潔を汚すことは断じて許さぬ」
「お前、誰に物を言っているのか分かってるのか?」
「もちろん承知。貴公の無類の色狂いは都では有名。特に色を売り物にしている白拍子などの間ではな。そのような腐れ下郎は、露姫さまには相応しく無い、と言っている」
「なるほど、露姫さまの御側に、何だかんだと難癖を付けて男を近づけようとしない警護の武官がいる、と言う噂を聞いてはいたが……。甚だ出過ぎた行い。お前のような分際が口を出すことでは無いわ。それでは訊くが、露姫さまに相応しいのは誰かな? まさか身分の卑しい武士の若者とは言うまいな? 例えば、たかが警護の、露姫さまの番犬に過ぎないお前とか」
「…………」
影虎は何とも答えられずに、惟近の冷笑を浴びているより仕方がなかった。
「飼い主のために役立たぬ出しゃばりな番犬は、私が露姫さまから買い取って、僻地の島へでも流してやろうか」
「そんな事ができるかな? 貴公のように貧乏な没落貴族に。家を維持する金にさえ困って、疎遠だったはずの本家に、金銀財宝を目当てに近づいて来たのは分かっている」
「何を言うか! これ以上の侮辱は許さん」
「それでは太刀を抜け。貴公の体の、特に股間にぶら下げている竿の軟弱ぶりも知れ渡っているが、その腰から下げている太刀も腑抜けか?」
「黙れ!」
「貴公が侮蔑して止まない武士に、ここまで言われて、まだ太刀を抜かないとは、何たる不甲斐の無い男か。斬り捨てられて当然」
「待て! さては、お前、私を殺すために待ち構えていたな」
「金に苦心している惟近は、露姫を暗殺して欲しいと言う反乱軍の依頼を、破格の報酬を条件に受諾してしまった。昔のよしみで、露姫に接近することは叶った惟近だったが、暗殺は未遂に終わった、と言うことだ。露姫さまの番犬に邪魔されてな」
「その手には乗るものか。たかが武士のくせに、貴族の私を罠にはめるような真似をしおって、許せん。この悪事、大殿の勝元さまに報告してやる。一応は甥に当たる私と、番犬に過ぎぬお前の言葉と、さて勝元さまは、どちらの方を信じるかな?」
「まあ、大殿様も、生きて残った方の言葉を信じるしか有るまい」
「こ奴め……」
月明かりの竹林の中を、悲鳴を上げ、衣の袖を振り回しながら死に物狂いで逃げる貴族の男。その獲物を野獣のように追い掛ける影虎は、貴族の男の肩から背中を一刀両断で斬り捨てた。
影虎は、手下の者たちに惟近の死骸を屋敷の中庭まで運ばせた。
そして、骸(むくろ)が惟近に間違いないと確認した大殿の勝元と、惟近の悲惨な最後を直視できないでいる露姫の前に跪いた影虎は、事の次第を報告した。
「長らく遠ざかっていたのに、急に露姫さまに近づいて来た惟近さまを、私は不審に思っておりました。露姫さまの寝所へ向かっていた惟近さまを捕らえて尋問すると、反乱軍に寝返った暗殺者だと白状したので即刻、排除しました」
影虎のこの嘘を、黒岩家の者たちは、一応は信じた。ただし、露姫一人を除いて。
実のところ、惟近は、露姫の初恋の相手だった。姿かたちは麗しいが零落している惟近との叶うはずの無い恋を、都で隆盛を極める黒岩家の露姫は、もちろん既に、とっくに諦めてはいた。しかし、あの惟近が落ちぶれたとは言え、殺意を持って、自分との再会を企図したとは、とても信じられない。真相はどうであれ、思い出の人を殺した影虎を、露姫は許せなかった。
影虎は、長い年月を掛けて築いてきた露姫の厚い信頼を失いそうになっている。
悩める影虎は、仄暗い板の間の隅に控えていた。
板の間の中央では、数人の侍女たちにかしずかれて、裸の露姫が湯浴みをしている。若く白い肌が上気して薄桃色に色づいて、少女の弾むように張りのある新鮮な肉体が濡れて輝く。その女体の放つ色香は一瞬にして、影虎の心と体を激しく燃やし尽くして止まない。
不意に露姫は、身辺警護をしている影虎の方を見て、
「明日から、そなたは鶴丸の護衛に付くように。私の命が狙われたのなら、鶴丸の方に、もっと危険が迫って来るやも知れません」
と命令した。
影虎は、その予想外の命令に驚いた。
「私に露姫さまの御側を離れろと言うのですか?」
「…………」
「私は、この十年、露姫さまから離れたことはありません」
「とにかく、しばらく私の側から離れているように」
「しかし、」
「私は、あなたの顔を見たくない、と言っているのです」
その夜、影虎は一人で縁側の床板の上に座り、ぼんやり月を眺めていた。
彼の視界からは、湯煙の向こうに見えた露姫の裸身の残像が片時も離れない。その肉欲の対象から離れているために、かえって若い男の血のざわめきは抑え難くなっている。
影虎は、女の肉体を求めて、闇夜の都大路(みやこおおじ)へ出て行った。
そして、影虎は、一人の若い女を拾って、黒岩家の屋敷内の、自分の寝所へ連れ帰った。若者は露姫を思いながら、その女の肉体を貪り喰うように何度も何度も、身代わりの女体と交わった。