熊沢雅宗は全てにおいて絶望することになった。
赤松重臣は長期入院し、熊沢雅宗との共同著書の出版は中止となった。さらに、なぜか赤松重臣の妻に代わって、美緒が付きっきりで赤松重臣の看病だけに専念することになったので、熊沢雅宗は、美緒と全く会えなくなってしまったのだ。
おそらく、赤松重臣の妻は、夫と美緒の関係に、とっくに気づいていたのだろう。
そして、赤松重臣も、熊沢雅宗と美緒との関係に気づいていたのだ。
赤松重臣は、熊沢雅宗と美緒を、もう二度と会わせないと決めたようだった。退院したというので、赤松重臣の自宅へ見舞いに行ってみて、熊沢雅宗は、改めてそれを悟った。
あんな大怪我をして自宅で静養していると言うのに、赤松重臣は相変わらず元気で、いやらしい笑みを浮かべている。
「熊沢先生が見舞いに来られるという事で、美緒はちょっと使いに出しておきましたので、今はいませんよ、会えなくて残念でしたな」
「いやいや、赤松先生がお元気で何よりです」
「おかげさまで、まあ、何とか私は命拾いをしましたよ。咄嗟の熊沢先生の救護のおかげと言うべきなんですかな。私は、あの事故の時のことをよく覚えてはいませんが」
「…………」
「熊沢先生は、まだご自分の説を基に研究を続けているんですか?」
「はい」
「あの農耕祭祀民族の女王と日本王國なんて、あんな説は捨てて、もう無駄なことはお辞めになった方が良いのではないですかな? 美緒とも、さっき話していたんですよ。今に大王の太刀や冠、装飾品が次々と発掘されて、私の方の説が証明されるのは時間の問題なんですからな」
赤松重臣は勝ち誇っている。
熊沢雅宗自身も、女王の存在に自信が持てなくなっていた。女王がいたという自説と共に、それを唱え続けた彼自身も消えて無くなってしまいたかった。
「赤松さん。あんまりお疲れになっては傷にも良くないでしょうから、私はそろそろ失礼します」
「ちょっと待ってください。まだ話があるんです」
「話?」
「熊沢先生、あの時あなた私を殺そうとしましたね」
「えっ」
「あなた、やっぱりあの時、落石事故に見せかけて、私を殺そうとしたんですな。昨日の夜、事故以来初めて美緒のアパートへ行って、ベッドの中で二人で話していたんですよ。あの事件のことを」
「あの事件?」
「あなたが犯した殺人未遂事件ですよ。あなた私を殺そうとしたんですからな。美緒が、なかなか白状しないので、またいつものように手厳しくお仕置きをしてやりましてね。容赦しないで、いじめ抜いてやりましたら、美緒もようやく告白しましたよ。あなたには私に対する明確な殺意があったと言うことを」
「…………」
「それで、そのあとは、美緒と二人で、やっぱりあなたの犯罪を警察へ訴えるべきだと、そう話し合っていたんです」
熊沢雅宗は、赤松重臣のことも、美緒のことも、警察の取り調べを受けることになって裁判に掛けられるかも知れないことも、あれこれ考えると絶望するしかなかった。
しかし、一番には、美緒に対する欲求で気が狂いそうになっている。精神はバランスを失い、常に酩酊しているような、おかしな感じだった。古代の王国の祈祷師やシャーマンとは、このような精神状態だったのではないか、と変に面白い気分になったりもして躁鬱気味だった。
熊沢雅宗の、邪馬台國のような女王のいる日本王國という説は敗色が濃厚である。そして、赤松重臣が、今に大王の太刀や鏡、装飾品が次々と発掘されて、間もなく自説が証明されるのだ、と勝ち誇っている姿を、御告げのように夢に見たりして、熊沢雅宗の孤独な魂は制御不能になってきた。
それでも、熊沢雅宗は行田古墳群周辺の研究調査へ出かけた。そうする以外に、どうしようもない心境だった。
そして、熊沢雅宗は、行田にある貝塚のような未知の古代遺跡から、新たに女性の白骨を見つけ、その女が女王であるという最後の虚しい希望を持った。それは、石詰めにされた人間の全身骨格だった。貝塚では貝殻のカルシウム成分が土壌をアルカリ性に保ち骨の保存状態が良いから、その人間の骨格は、驚くほど完全な状態で露見した。まるで死の瞬間の光景が眼に浮かぶほどに、生きた人間の最後を留めていた。
熊沢雅宗は、それが女の骨格であり、女王の遺骨に違いないと信じて疑わない。しかし、貝殻や小石を取り除きながら考えてみると、当然に、なぜ女王が王墓ではなく、貝塚のような穴に埋葬されたのか、という疑問に行き当たる。
――埋葬されたのではない。生贄とされたのだ。
その結論に達するまでに時間は掛からなかった。おそらく若く処女のままで死んだであろう生贄の女王の骨に、痛ましい気持ちと、憐れみを持って触れてみた。不意に、ある予感に襲われて、熊沢雅宗は目を閉じた。
熊沢雅宗は、古代のシャーマンの脱魂状態や、何かが憑依した精神を体感しているようだった。眠っているのか、覚醒しているのか。幻覚を見ているかのような、夢うつつの中にいた。目の前には、現実ではない光景が確かにあって、自分の存在の方が幻であるような奇妙な感覚がある。
そこは、もう弥生時代の古代世界だった。
熊沢雅宗は貝塚のような穴の中にいて、彼が穴の底から見上げると、やがて、若い巫女が一人だけ穴の底へ下りて来た。不思議とその巫女の顔は美緒と瓜二つだった。
熊沢雅宗は、
「君は女王なのか?」
と巫女に尋ねた。
巫女は首をかしげた。そのしぐさも美緒に、どこか似ている。
「女王でなければ、なんなんだ? やはり、ただの巫女なのか?」
「…………」
熊沢雅宗は、現代日本語と古代の日本語とでは発音や文法なども違い、言葉が全く通じないのだと理解した。何か意思の疎通が図れないものかと思い、咄嗟に、いつも持ち歩いている大王の水晶勾玉を巫女に手渡した。
巫女は、初めは驚いて大王の勾玉を受け取った。その時の表情にも、まさしく美緒の面影がある。彼女は美緒の遠い祖先なのかも知れない。巫女は、掌の勾玉を愛おしそうに見つめている。その憧れの表情と、巫女の姿をしばらく見守っていて、やはり、この國には、女王は存在しなかったのだ、と熊沢雅宗は悟った。
巫女は、大王の勾玉を大事そうに胸の中に抱いて俯き、憂いを帯びた表情のまま、穴の底に静かに横たわった。蒸し暑いのに、なぜか微かに震えている。
熊沢雅宗が穴の底から再び見上げると、古代の村人たちが穴の周りから小石を一つずつ投げ落としてくる。穴の周りの至るところから、小石が雨あられのように降ってきた。
穴の底に横たわっている巫女の体が、どんどん降ってくる小石で埋まっていく。そこでは、ただ透明な空気のような傍観者に過ぎない熊沢雅宗は嗚咽を漏らした。
処女の巫女は、わずかに目を開き、
「仕方がないのです」
と呟いた。
熊沢雅宗は、ああっ、と感嘆の声を上げ、
「たとえ女王ではなくても、後の世で、生贄のあなたの骨だけが、あなただけが、私に語りかけてくれた。あなたは私に何かを伝えようとしてくれた」
と叫んでいた。
小石に埋もれながらも巫女は、
「私は、赤松大王に仕える巫女でした」
と言った。
熊沢雅宗の目には、別の幻が浮かんだ。木造の宮殿のような建物の中の、薄暗い部屋が映っている。
部屋の中央には低い台座があって、大王があぐらのような恰好で座っていた。まさに騎馬民族の族長のような出で立ちで、長い太刀を杖のように両足の間の床に突き立てている。その大王の前から少し離れたところに、巫女が平伏していた。
大王の横に立っている男は、大王の側近なのだろうか、巫女を激しい言葉で責め立てている。
「おまえは勾玉を一つ盗んだな。大王の勾玉が、どうしても一つ欲しくて盗んだと、さあ白状しろ」
巫女は、ただただ平伏していた。体は恐怖で震えている。
大王が野太い声で、側近に言った。
「西の大國に倣って、不老不死に効力があるからと大勢の巫女を使わしたが、やはり我らには巫女など要らん。巫女の祈祷は全く効かないではないか。不老不死は嘘で、盗みまで働く、巫女など信用ならん。女は子だけ産んでおればいいのだ。西の大國とは違い、やはり我ら騎馬民族にとっては馬こそが力の源。馬で民に力を示し、土地を開墾させ、その土地には地母神が宿る。巫女など、どこにも必要がない。巫女など要らんのだ。この巫女も生贄にでもしてしまえ」
大王は、太刀を持ち上げてから床に突き刺して大きな音を打ち鳴らし、暗い宮殿内に怒りを示した。
その幻の光景を、雨あられのように降り続いている小石が、瞬時に搔き消した。
穴の底の小石に埋もれゆく巫女は、さらに途切れ途切れに必死で口を開いて、
「大王の勾玉が一つなくなって、私は責められて仕方なく……、どうしても欲しくて、一つだけ私が盗んでしまいました、と白状するしかありませんでした」
と呟いた。
熊沢雅宗は、
「その勾玉を盗んだのは私だ。あなたは悪くない、あなたは盗んでいない。私のせいだと弁解しなさい」
と叫んだ。
しかし、もう顔だけになった巫女の最後の吐息が、
「これは、その罰なのです」
と小石の狭間に途絶えた。
熊沢雅宗は、まるで自分自身の死の瞬間を目撃したかのように、堅く目を閉じるしかなかった。