中学生時代   雪の思い出
 
 
 
 私は、もう一度、あの物語が読みたい。
 あれは、たしか私が中学校三年生の時に受験した神奈川県立高等学校の入学試験会場でのことだった。
 自分自身の中学生時代のことなのに今では、その時の記憶が、ぼんやりとしていて、はっきりとしないことが、とてももどかしい。
 断片的な記憶しか思い出せないのだが、高校入学の国語現代文の試験問題として、私は、あの物語を読んだような気がする。それは、たしかロシアの作家の短編小説であった。
 お願いだから、もう一度だけ、あの物語を私に読ませて欲しい。あの物語の題名、作者の名前が、どうしても知りたい。私は、もう一度あの小説が、私の眼の前に現われることを願っている。
 私は、その小説が、あまりにも好きであるために、その小説の光景が、まるで自分自身の中学生時代の現実の体験であるかのように思ってしまっているほどだ。私の中学生時代の記憶と、その物語は、調和して交じり合い、混沌としているようであっても、しっかりとした一つの記憶となっているのだ。
 しかし、それは、やはり私の実体験ではない。それは私が出会った、あくまでも虚構の物語の一つに過ぎないのだ。それは、ロシアの或る小説家の自伝的短編小説であること以外、文体や、題名さえ忘れてしまった。その文章を思い出せないことは本当に口惜しく、自分の頭脳の不確かさに落胆しかないが、ただ、その粗筋だけは記憶しているので、まるで、それが自分自身の中学生時代の思い出であるかのように、その物語の題名を、仮に『初恋』として、でき得る限り鮮明に、その物語を、ここに書き起こしたいという衝動に、私は耐えられなかった。
 
 
 
   『初恋』
 
 シベリアの真珠と謳われる美しい湖、それは湖と呼ぶには余りにも広大で、海のようなのだが、そのバイカル湖を望む平原の小さな村が、私の生まれ育った地で、その時まで、その村の中と、その周辺だけが、私の知る世界の、ほとんど全てだった。
 少年時代の私には、友達と呼べる存在が少なかった。男友達は数人で、ましてや女友達と呼べるのは、少女が、一人だけだった。
 それは、いま思い返してみると、私の生涯で最も新鮮で、歓喜に溢れた夢のように楽しい瞬間の連続だった。少年の私は、永遠に輝き続けるかのように美しい少女と二人だけで、学校のことも、家族や家のことも、時間の感覚さえ何もかも忘れて無我夢中になって遊んでいた。その瞬間こそが、楽園の場所、あるいは天国の日々であったと、人生の半ば以上が過ぎ去った今、私は確信を持って言うことができる。それは、一番美しい雪の思い出でもある。
 
 シベリア平原の雪が積もった小高い丘の頂上に向かって、少女と少年の私は、雪ぞりを押していた。二人とも息を切らしながら夢中で雪ぞりを押す。ようやく二人で丘の上まで雪ぞりを押し上げた。二人乗りの雪ぞりの前の方に私が乗り込んで、少女は私の後ろに座って、二人は雪ぞりから振り落とされないように、私は雪ぞりの前方の木枠を掴んで、少女は私の腰に掴まった。
 私の足も雪から離れ、雪ぞりの支えが何も無くなると同時に、二人乗りの雪ぞりは、丘の頂上から勢いよく滑り出した。冷たい風と粉雪が顔に当たる。雪の結晶は融けずに、頬の皮膚を凍らせてゆく。それでも、少年の私は頬の冷たさ以外、寒さや苦痛なんて少しも感じない。ただただ、楽しくて仕方がないだけ。少年とは、そういうものなのだ。
 雪ぞりは、綺麗な白銀の斜面を走り抜けて行く。疾走感、高揚感、少女と少年は、いつまでも止まることの無い瞬間の中にいた。
 冷たい風の中、少女は、私の背中に囁いた。
「あなたが好き」
 雪の丘を滑り終わり、雪ぞりが停止すると、私は振り向いて少女を見た。
 そこには、いつもの、まだ幼さの残る少女の純真無垢な楽しい笑顔があり、瞳は無上の喜びに輝き、少女特有の可愛い頬は新鮮な桃の果実ように美しく染まっている。
 しかし、私の耳には、まだ、少女の吐息と共に、「あなたが好き」という熱い囁きが残っている。そして、私の目には、雪の風に吹かれ前髪が流れて露わになった少女の額と、綺麗な面差しが、不思議と急に大人びて見え、訳も分からず、私の胸の鼓動は高鳴った。
 それでも、その時まだ私は少年だったから、子供の無邪気さもあり、確かめたくなって堪らずに、
「いま雪ぞりで滑っているとき、僕に何て言ったの?」
と尋ねてしまった。
 少女は、ただ微笑みながら、
「滑っているとき、あたし何か言ってた? 楽しかったから、なにを言ったか覚えてないよ」
と言っただけだった。
 でも、私は一瞬、少女の瞳の奥に、それまでに見たことの無い光を見てしまった。その光は、いつまででも私の心を捕らえて放さない強烈な力を持っていて、私の全身は、次に何かの刺激を受けなければ、身動き一つできないような痺れた感覚があった。
「ねえ、もう一度滑ろうよ!」
と少女は溌溂と言って、私に背を向けた。
 私は瞬間に夢から覚めたようで、ぼんやりと少女の美しい後ろ髪を見つめているだけだった。
 
 少女と私は、また一生懸命に二人で雪ぞりを押した。息は弾み、胸の鼓動は激しかったが、疲れ知らずの子供だったし、無我夢中になって、いつまででも全力で走っては転び、走っては転びしながら、雪ぞりを丘の頂上まで押し続けた。
 少年の私の胸の鼓動が、体の奥の方から熱く高鳴っていたのは、雪ぞり遊びの全身運動のためだけではなかった。私の心は、初めて恋を感じて、激しく脈動していたのだった。
 雪の丘の頂上に立ち、休むことなく二人が飛び乗った雪ぞりは丘の上から、また勢いよく滑り出した。私は、雪ぞりの全面の木枠に掴まり、後ろの少女は私の腰に掴まって、滑走する雪ぞりは全速力に達した。疾風の中、雪遊びの楽しさと共に、それまでに感じたことの無い新たな歓喜が湧き起こり、私には、雪ぞりが、他には誰もいない少女と私の二人だけの世界へ向かっているような錯覚があった。
 そして、時が止まったような風雪の中、少女は、また私の耳に熱く囁いた。
「あなたが好き…」
 雪の丘を滑り終えて雪ぞりは雪原に止まった。耳にまだ残る少女の熱い吐息を追い駆けるように、私は後ろを振り向く。
 見渡す限り白一色の雪面に、太陽の光線が乱反射して眩しい。その照り返しの白い靄のような光の中に、少女の微笑みがだけが映っている。少女の姿は、幻のように淡く儚く決して手の届かない存在として見えたかと思えば、無数の輝かしい光を散りばめたように煌めき、ついに手にすることのできた唯一無二の宝物にも見えて、これが、これだけが欲しかったんだ、と狂おしく思わせた。
 少年の私は、また思わず、
「ねえ、いま風の中で僕に、なんて言ったの?」
と尋ねた。
 微笑む少女の顔は、ぱっと、さらに輝きを増して、
「えっ、あたしまた何か言ってたの? なにも言ってないと思うよ」
と美しく澄んだ声を聞かせた。
 私は、涙目になりながら再び尋ねた。
「ねえ、風で、なんて言ったか、よく分からなかったから、教えてよ」
「なにも言ってないったら。きっと風の音でしょ」
と少女は悪戯っぽく笑った。
 
 いわゆる徒党時代と言われる年頃の少年だった私は、男子の友達と、みんなで大騒ぎして遊ぶのが好きだった。しかし、十二歳に成った頃から、同じく十二歳に成ったその少女と二人だけで遊ぶことが、もっと好きになっていった。
 そして、少年の私にとって、彼女と二人だけで遊ぶ時間は、少しずつ、それまでとは違った感触を持つようになっていった。
 少年の私は、その奇妙で不可思議な心の変化に戸惑いながらも、その激変の違和感に全身と頭の中までも熱くなるほどに無我夢中のようだった。ただただ、どこまでも彼女を追い駆けて、いつまでも彼女を見つめていたいような、できることなら彼女の体に触れてみたいような気持で、いっぱいになっていった。
 それまでのように、少年と少女が、ただ触れ合うのではなく、よくは分からないが、何かもっと二人だけであることを意識しながら、ゆっくりと時間を止めて彼女に触れてみたいと言う衝動が湧き起ってくることに、これは何か大きな変化なんだ、と少年の私は思うようになった。彼女の存在が、自分の頭と肉体の中で、どんどん巨大に成っていくことに惑乱していた。
 
 少女は何も無かったかのように笑顔で言った。
「また滑る?」
 私は応えた。
「もう一度、滑ろう!」
 冷たい風の中でだけ、私は耳元で、たしかに少女の熱い囁きを聞くのに、また雪ぞりが止まってしまうと、そこには少女のように、まだあどけなさの残る可憐な笑顔があるだけ。私は、もっと少女の熱い囁きを、しっかりと聞きたくて、そして何かが、じれったくて仕方がなかったが、それが何なのか分からなかった。
 また、悪戯っぽく少女は尋ねる。
「もう、雪ぞり遊びは、終わりにする?」
 私は泣きそうになりながら言った。
「まだ続けよう、もう一度!」
 私は何度も、何度でも、雪の風の中でだけ感じる少女の恋の告白を確かめたかった。
 
 少女に感じた私の初恋が、そのあと、どうなったのかは私の記憶にはない。
 ただ、この雪の思い出だけが、鮮明に私の心に残っているだけだ。
 それは、まさに初恋だった。二人は幼過ぎた。それが、男女の恋には成るには、少女と少年は、あまりにも若かったと言うことだ。
 少女と私は、初等学校に通っている間は、一番親しい同級生のまま。そして、二人が中等学校へ進学したあとは、付き合う友達も変わりゆく中で、どちらからともなく、いつの間にか互いに離れて行った。
 私は、彼女のことを、長い間、気にしていたかも知れないし、あるいは、ほんのわずかの間で、気にしなくなって、他の女の子に心変わりしていったかも知れない。そこのところも、今では欠損していて断片的記憶でしかなく、覚えていない。それは、さみしいことなのだろうか、分からない。それで終わったからこそ、美しい思い出として残っているのだろうか。
 少女は、中等学校を卒業し、大人になってから、しばらくして、どこか遠い町へ嫁いで行ったと、のちほど母から聞いた。
 私は、今も、初恋と雪の思い出が残るこの村で暮らしている――。
 
 
 
 私が中学生時代に読んだ、この初恋を描いたロシアの自伝的短編小説は、ロシアから遥か遠く離れた日本国に住む私という少年の読書体験として、鮮烈なまでに記憶に残った。今では、それは儚い記憶の欠片のようでしかないが、その記憶は、まるで私自身の実際の体験であったかのようにさえ思われる。
 初恋も、人生での、その他すべての出来事も、やはり夢や幻に過ぎないのだろうか。
 私自身の初恋を、もう一度体験することができないように、あの自伝的物語を、もう一度読むことも、やはりできないのだろうか。
 願いが叶うのであれば、あの美しい物語に、もう一度だけ出会いたい。そして、自分自身の回想録であるかのように、中学生時代への憧憬と共に、あの物語を読みたい。
 誰か、あの短編小説の作者と、真実の題名を知る人は、いないだろうか?