私は僧名(教会で熱心に布教された理由)を持ってはいるが僧侶としては生きてはいません。それは自分が心底信じていないものを他人に存在しているとは言えないからで、一方、困っていなくても積極的に神(仏)頼みはする都合の良い俗人ですが、そんな宗教に関わる環境も手伝ってか、霊感と呼ばれているものを私は持ち合わせていないと思いますが、超常現象(心霊)と言われるものを経験する機会はたびたびありまして、例えばいわくつきのものが寺に持ち込まれると、いわくつき(大体が縁があり自宅に置いていたものの、何かがあって持ち主が困りはて寺に持ち込まれたもの)と聞くと気になるもので、友人と本堂へ行き私は箱開けて触ってみなと促してみた。「大丈夫かよ」と渋る友人に調子ものの私は根拠なく「大丈夫」とたきつけ、友人は箱から出してそれを持ち上げた、その時である、ソクラテスのダイモニオン(ダイモーン)のような得体のしれない声(ただし言葉ではないが、女性的な声で擬音にすると「ファー」みたいな感じ)と思われる音が私に聞こえた。私は友人が腹話術でもして仕込んだものだと勘ぐり間髪いれずに「しょーもないことをするな」と友人を一喝したが友人は驚いた表情をしながら「何もしてない」と言った、次の瞬間、今度は、両方にその声らしき音が聞こえた。正確にいうと同時に聞いたというのは口に出して確認したものではなく目くばせ(以心伝心)で聞いた声というのも普段の耳から聞こえるものではなく頭の中に直接という感じでこれまで経験したことのない事象だったことから今でも覚えています。いわくつきのものを箱に戻して本堂から出てきたのですが、面白いことに恐怖心というのは一切なく、「そうきたか」という感じでいたって冷静でした。次の日もその次の日も私は本堂に行かなければならないので、お焚き上げするまで連日、そのいわくつきと顔を合わせなければならないのですが、かわいらしい顔をした日本人形なので親近感を持っていました。(もしかして憑りつかれていたとか?しかしそれ一回きりで以降は何もありませんでした。)ここのポイントは頭の中に直接というのは、はじめての経験で想像もしていなかったので「今のは何?」とそこに意識がいったところにあり、パレイドリア現象のように心霊話によくある恐怖心というのは恐怖を記憶から作り出ている反応が多く、人は予想にもしない経験をすると驚くよりも考えてしまう。例えば考えた恐怖でいうと赤い上下のスーツを着た女性が深夜に一人で本堂(本尊)の方角に向かって一心不乱に何やら祈願していたのを家政婦はみたの市原悦子のような感じで覗き見たときに邪心を想像したので怖いと感じましたというように(実体験)。別の意味の恐怖といえば、お供物を狙う鼠、それを狙う蛇、その蛇が薄暗い本堂の中で突然、天井からボトンという音を立て足元に落ちてきたときはトラウマ級に驚きました。話に戻ります。もう一つは以心伝心で科学的な根拠は示されなかったが虫の知らせの第六感(超感覚的知覚)を冷戦時代に米ソが超心理学としてまじめにテレパシーの研究をしていて、ずいぶん昔のTVの超能力企画で物理学者としてそんなものは存在しないに立脚している大槻教授とロシア出身の透視能力がある女性が大槻教授監修で指定の物質の正体を透視するということで対決、見事に透視(宇宙開発に使用されている金属)されたというものがありました。大槻教授は負けたら辞表を提出すると言っていたけれども、所持していた辞表の中身が科学が超常に負けたからかどうかは気になるところですが、あの敗北によって大学をやめたのだろうか?しかし、上記の私の経験では現象については予想していなくても「いわくつき」ということは意識しているので、それが妙な現象を作り出したかもしれないが、心霊とかを全く意識していない時に起きる場合もあります。寝転んでいて超常的なことを意識していない日常の中で古風な引き戸の開くガラガラガラというわかりやすい音と「ごめんください」という中年以上の女性の声がはっきりと聞こえた。その場(玄関のとなり部屋)には複数人いて全員が反応(どうして全員とわかるのかは、雑談が一瞬で止まるという反射行動が見られたから)、私が一番となりの部屋のふすまの近くに寝転がっていたので、他の人に私が出ると目配りをしてから、私は、よそいきの声でハイと返事をしてふすまを開けたのですが、引き戸は閉まったままで誰もいないし、いたずらにしては引き戸が閉まる音も聞こえていない、ふすまを開ける前には人がいる気配が確かにあったのだが・・・。そのあと少し時間が経過してから出たのは私ではありませんが、偶然にもお通夜依頼の電話がかかってきた。ごめんくださいの声とお通夜の依頼に関係があるのかを問えばただの偶然で全く関係ないかもしれないが、聞いたのが一人なら幻聴かもしれないが、複数人がたわいもない雑談をしているさなかに聞いているので、その時も怖さよりも一体何と考える方が先で、考えた末、その体験によって心霊現象を幻覚、幻聴の類だけだとは思えなくなった。最恐心霊写真とかいうのがあるでしょ、そこに出てくる写真よりもっとえげつない写真が撮れても(しっかりはっきりと写っている)そういう風に見えるだけだろうと軽く流したり、前の話とは別の友人と車で真夜中に街灯もないもない山道を走っていると、運転していた友人がバックミラーとフェンダーミラーをしきりに気にしていて、急にハザードを出しブレーキをかけて止まり右側のフェンダーミラーを覗き込み首をかしげていたから、どうしたと聞くと、いや、ずーとバイクが車間距離を詰めて走ってくるので、先に行かそうと止まったけど、追い越してこなくて消えたという話をして、まあ私が見たわけではないので「そういうこともあるやろう気にするな」と軽く受け流す私がです。しかし疑問も持っている。それは「ごめんください」は魂的なものであったとしてもガラガラガラの引き戸が開く音は必要だったのか?その日常にある生活音に何か意味はあるのでしょうか?という疑問です。思い付きの推論を書いてみると、通夜の依頼は通常、檀家に多くみられ以前に寺に来訪していた可能性はありドアの構造を認識しているということを前提に、死んでしまったけれども自分で通夜を頼みにいかなければならないと、粗忽ではあるが律儀な人の残心が何かしらの影響で我々と繋がっていたとすれば、あの時の引戸の開く音は相手の記憶の中の産物である思考転写で、あの場にいた全員が臨死体験を共有していたのではないのかというものです。脳の10%神話は大そうな話だとしても、脳はある種のリミッターをかけていて、臨死体験と同様に死ぬ境界線上の一瞬だけリミッターが解除されて言語が生まれる前に持っていたかもしれないテレパシー的なものが発動しているかもしれない。これについては冷戦時代に米ソが超心理学として研究していたようにワッカーマンが2003年に「空間的に離れた2人の被験者の脳の電気的活動の相関関係」としてMRI装置を使った機能的磁気共鳴画像法と脳波測定によって隔離状態にある2人の脳が同時に作用するのかの実験において、同時に作用するという結果も出ており、思考転写は超常現象や臨死体験のヒントになるかもしれない。ワッカーマンはこの現象を量子のもつれ説として提唱している。