進歩主義としての「何かある」
被害者ポジションといえばフェミニズムもその一つと言えるでしょう、活動の結果いろんな成果もあったでしょうが、失うものもあります高福祉です、人がいないのですから介護を期待できない人たちも出てくるでしょう。ここからわかることが、被害者ポジションの方々のもう一つの特徴、進歩主義としての「何かある」です。昔、デマゴークにそそのかされた人たちも何かあるを信じて邁進しました。あったのはそれまで以上の独裁と大勢死んで結果責任を取らされたことです。フェミニズム理論も多くの独身女性を生み出して、4人に一人は一生のうち子供を持たないということです。仕方がありません、信じた責任を受け取り、一人で死んでいってくださいというのが結果責任です。それを、すでに政府のおひとり様・・・という声が聞こえてくる、少子高齢化の中でリベラルな社会を維持しようとする声明ですが、これも最終的に財務省の埋蔵金の話と同じになる可能性が高いというのは、チャウシェスクの社会主義時のルーマニア法令770号、日本の1930年代の産めよ殖やせよは、国家主義かつ社会主義政策であるように日本のお一人様、だれ一人置いていかないとする社会主義政策も、持続していく為に「人」は不可欠なのです。
それを、スピノザにとっての権利とは、そのものが持っている力(能力、才能)というところから鑑みると、子供を産める人の権利は子供を産むことにある、その特有の権利よりも「何かある」に賭け、他の権利を模索するも、あったのは単に資本主義の優勝劣敗の世界に駆り出される権利ということになる、おめでとうございます。優勝劣敗は成功者だけが手中にできるもの、このように上野千鶴子の理論は、戦い勝ち残って大金を稼いでメイドを雇えるだけの人が潤えるものであり、女性の解放は普通の資本主義の世界を提示したに過ぎないので、次に出てきたのは、負けた人へのメッセージ「等しく貧しくなろう脱成長」の「何かある」です。恐らく、ろくなものは待っていませんので、子供は無理でも、互いに介護してくれそうな人を探しましょう、どちらかは介護できる「権利」を味わえるかも、まだ間に合うかもしれない。
上野はシモーヌ・ド・ボーヴォワールを高く評価していて、ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」というのを男性に反転させると「人は男に生まれるわけではない、男になるのだ」というのは、男性の主婦をさせてくださいに対する社会の冷ややかな反応でわかる。そのボーヴォワールはサルトルの実存主義の影響を受けていて、そのサルトルは中国やソ連の社会主義に「何かある」=アンガージュマンを期待したけど、あったのは独裁と殺戮。上野の思想にも実存主義が含まれているのでしょう。
↓これを当時に騒いだのが辻元清美らでしたが、政治家なら元厚生大臣、柳澤伯夫のように責任倫理で正直に話して国民に理解してもらわなければなりません。それを「生む機械」と内容自体を切り取りして糾弾する、当時は国民を煽れて気持ちが良かったのかもしれないが、そのことの為に、本来、国民が知っておかなければならない情報をゆがませた責任は重大ですが、どうでしょう、彼女らがその責任を背負っているように見えますか?私には騒いだ、その結果責任を果たすことなく、他人の責任は追及する、今も活動家の心情のまま被害者ポジションから糾弾する側にいるように見えます。まさに「良い意志であれば結果がどうなろうが許される定言命法」の心情なのでしょう。
忘れもしません、2007年、元厚生大臣、柳澤伯夫の「年金 医療 福祉」の講演での発言で、機械ではないけど人口統計学的に考えると生む数は決まっているとした発言に「生む機械」と問題視して、大騒ぎ、散々叩かれ柳澤は次の選挙に落選、こうなると政治家は怖がり誰もそのことを口にできなくなる、ということで、このまま進むと「年金 医療 福祉」は縮小せざるを得ないとする、本来、国民が共有(2015年まで出生数は100万人台を維持していて、もしあの頃生まれていれば現在18歳の成人、共有できていれば、数万人単位で存在していたかもしれない、していないのなら年金 医療 福祉はあきらめて縮小を受け入れろというだけの話、そこを無視して新たな問題を作り出す)しなければいけない方の問題意識は生む機械に刈り取られて、翌2008年の「35歳を過ぎると羊水が腐る」発言からの批判→謝罪→活動自粛も同様に、それは今も言葉尻をとらえて責め立て国力が減退する方向へと誘導するメディア、政治家、乗せられた人は、そこから生み出された結果を受け入れることもなく、何をいまさらファビョっているのかという話で、あの時に生む機械と攻撃した人たちが今、外国人に頼らないといけない、介護、社会保障費も・・・排外が~差別が~と主張している。
取り返しのつかないこともあることを「何かある」と軽々しく煽動しておきながら、混乱を巻き起こしてもあとは知らぬ存ぜん、どうしてそんな不誠実なことができるのか、それは単にそういう性質だからで、小学校のころからクラスにいたでしょう、そういう人間、だから私は活動家の心情のままの人は政治家に向いていないので目指してはいけないと言っている。しかし、そういう人間は社会を変えてやるという野望を持ち選挙に立候補してきます。