ここ数日、立て続けにカントの「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」を実感できる出来事が起きた。一つは佐藤二郎と橋本愛の件を受けての反応であり、佐藤を擁護する人間は週刊誌の真偽を疑い、その過程からTV局に主因があり、佐藤も被害者、橋本側に立つ人間は役者をやめた方がというのはとにかくパワハラにあたる、それに佐藤のXの告白によって橋本に批判が集まったのは犬笛で佐藤の責任だというもの、私の読みは別のところにも書いているけど、後ろで暗躍する人権団体に総括を求められると、特にフジTVは中居の時のスポンサー自粛による大打撃という「トラウマ」をかかえていて、人権団体のアドバイス通りにしないと再度の可能性も脳裏によぎり、従わないわけにはいかない、そうしたトラウマの恐怖という環境の中で迂闊にも保身に走ったのが、佐藤に厳重注意という判断であり、たどれば、男女共同参画でそんな人間がのさばる環境を作った政治に一番の責があるというものです。というように見事にその人の今置かれている立場、心情によって、認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従っていることを確認できる。この立場、心情に注目すると、佐藤を擁護する人間は過程を重視しているのに対し、橋本側に立つ人間は与党自民党が推しているジェンダーなになにを重視して、誹謗中傷許されないとしながら、ジェンダー何々を推している自民党の特定議員など気に入らない人間を屁理屈で攻撃している面々が多い。気に入らないものを攻撃するということから2つ目に入ると、斎藤兵庫県知事に対する常軌を逸する攻撃を繰り返している面々の中に、歌手の柴田淳も参加し「人殺し」と叫んでいたことに、所属先のビクターは「個人を誹謗中傷する内容」があるとして抗議、その抗議に対して公人だから誹謗中傷には当たらないとして、大勢で文句のメールをビクターに送信しているようです。いつから公人には名誉棄損をしていいことになったのか私には、その理屈が理解できませんが、つまり自身らの仲間が批判されるのは攻撃に見え許されないから反撃してもよい、としながら佐藤の意見は犬笛と、どうもこの人たちは過程などよりも普通の人にはない正義の基準があるようです。その基準で疑義の場合でも盛大に攻撃したり、謎論理で擁護に回ったりしている。

 

 

このシリーズにカントの「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」から、スピノザのような自由を求める人は、そういう人間に対して「私は人間の行動を、笑ったり、悲嘆したり、憎んだりせず、理解しようと努めている」 と必然として受け入れようとし、チェスタントンは「狂人とは無限の理性と偏狭な常識との結合である」「狂人は理性を失うのではなく、理性以外のすべてを失う」とし、ジョナサンハイトは道徳基盤理論で保守的な人は6つすべての特徴をバランスよく持っているけど、リベラルは下の3つを重要視していて、同じものを見ても情念次第で別のものに見える人もいると取り上げましたが、もう一つ必要な気がします、それは新しいものではなく、相反する物事を同時に考えの中に並存させる人たちで、ファシズムやナチスに共鳴した人たちに性質が似ているというのが私の解釈で、マックスウェーバーいう責任倫理に対し、良い意志であれば結果がどうなろうが許される心情倫理の傾向があるようです。

 

「loyalty(忠誠)」=仲間意識、自己犠牲、裏切りへの嫌悪の感情が道徳性価値に影響している。

「authority(権威)」=年功序列的な縦社会や社会秩序を尊重する感情が道徳性価値に影響している。

「sanctity(神聖さ)」=アニミズムや律法を順守する感情が道徳性価値に結び付いている。

「care(配慮)」=いわゆる相手の身(立場)になって共感や保護、慈悲を考えるが道徳性価値になっている。

「fairness(公平)」=不正に対して強い正義感を持つ

「liberty(自由 権利)」=反権力や平等