今夕 井原市民会館で
第28回井原平和祭語り部との集いに 参加しました
今年の語り部は 中村 博さん
13才の時 学徒動員先の広島で 被爆なさいました
中村さん、日に焼けた肌 真っ直ぐに伸びた背筋
最近 足下が危なげなな 私の父と比べると しゃんとして お元気そう・・
それが 第一印象でした
63年前の あの日、 8/6(月)
中村さんは 前日体調を崩され
いつもより遅くに 滞在先の国有鉄道の寮で 出勤の準備をされていました
中村さん、13才
8:15 玄関先
いきなりの爆音 周りで巻き上がる炎
幸いにも 外傷は なかったそうです
勤務先の 第一機関区に行ってみると 沢山の負傷者の方々
必要書類などを運び出し 夕方までかけて 負傷者と一緒に避難先に移動
めくれた真っ赤な皮膚以外は 全身真っ黒の行列
みんな黙って よろよろと歩き続けたそうです
靴はほとんどの人が片方しか履いていなく 裸足の人も多かったそうです
避難先に到着した日 (8/6)
朝8:00まで 治療を受ける前の方に 水で消毒作業をされました
焼けこげ 垂れ下がった皮膚を 手でちぎったり (ハサミなどなかった)
肌に食い込んだ衣服を 手でちぎったりしました
それは たんたんと行いました
・・・ この時中村さんは 肩をふるわせて お泣きになりました
みなさん 痛かったでしょう
申し訳ありませんでした
私が死んだら この方達に お詫びを言いたいです。
その後 小一時間くらい仮眠の後
8/7(火) 救援活動に行くように命令を受けたそうです
避難所に連れていってあげる事のできる人は 少なくとも自分の事は自分でできる人・・
(自分の事が自分でできない人は 収容できないということです)
大声で 「動ける人は出てきてくださーい。収容しますからー」
何人か収容した後 その場を 立ち去ろうとした時
傍らに 全身やけどをおわられて 片目しかない人がおられたそうです
この人は もう亡くなられているのだろう・・・
その時
中村さんの足をつかんで 中村さんをじっと見つめて 「おぉー おぉー」 と 言われたそうです
核爆弾・・・ 1000℃以上の熱風 吸い込んで 気管をやられ声がでない
肺までやられて 多くの方が一週間以内に 亡くなられたそうです
上司の指示で この方を収容することはできませんでした
8/8(水) この日は 遺体収容を言い渡されたそうです
トラックに 3人がかりで 遺体を収容してまわられたそうです
腐敗がひどく 皮がずり向け 手で持てないと上司に言ったところ
「日本男児じゃろー しっかりせぇー
皮を持ったらずるむけるのは当然じゃろー 手をぐっと肉に食い込ませて骨を持てー」
中村さんは13才
我が子は15才と17才
8/8、電車が復旧し 遅くに ご自宅に帰ることができた中村さん
9月初旬に復学
そのことから 脱毛がひどくなり 一ヶ月後には丸坊主になったそうです
10月初旬には 食事の度に 歯茎からの出血がひどく 食事に不自由されたそうです
友達から
ピカドン受けたもんは 触ったら うつるでー っと言われ続け
1月には気持ちが続かず 退学されたそうです
S33 たんのう炎
S42 たんのう切除
S46 高熱が続き ベイゼット病発病
H14 胃ガン
H15 十二指腸ガン
H16 直腸ガン
H21 ベイゼット病の治療 直腸ガン
最後に中村博さんから 今日の参加者に・・・
私は広島で被爆し、たくさんの病気を患いました。
でも、70を過ぎた今もこうして生きています。
私以上に辛い思いをしている人もいます。
戦争は絶対してはいけません。
核爆弾がこの世から無くならない限り 人類の平和はありません。
ちょうど8時になりましたので 私の話は終わります。
今日はありがとうございました。
語り部 中村博さんのお話しでした。
参加者は 帰途に着くため 足早に階段を降りていかれました。
今日はありがとうございました。
どうぞ お体に気をつけられてください。
そう言いたいと思ったばかりで 行動に移せなかった
弱いわたし
命はって がんばられておられる方を前に
今一歩 勇気が出なかった
反省です
話しだけに終わらせず 私にもできること・・・
ここで お話しさせていただくこと
我が子に伝えること
和
