専門編集委員の牧太郎さんですか。
のほほんと生きた人には自殺の動機なんて判らないでしょうね。
芥川龍之介と大阪・桜宮高校のバスケットボール部部長の自殺を同列に語るのは不謹慎極まりないですね。
かたや超有名作家。
一方は現代の窮屈な学校生活の中で一番近い存在の教師にイジメられ理不尽な何十発もの暴力行為を受けた生徒と、比較して何になろうか。
こういう無神経な言葉が暴力を生むのに気付かないのだろうか。
それとも、マスゴミの社会の中では他人に対する配慮という視点が欠けてしまうものなのか。
書いたら書きっぱなし。たとえ間違いがあっても、二、三行の訂正文で終わり。
こんな環境の中で生活すれば、自己反省も無く、無責任な人生を送ったとしても、何の差し障りも感じなくなるのだろう。
人間としては、もう歪みきっていると言える。
この人は他人をイジメる側に何時も立っていたに違いない。虐められる辛さを理解していないからだ。
他人の辛さが自分の経験上理解出来ないのならば、黙っていて欲しい。
なにも新聞などを使って自分の経験の至らなさを自慢する事は無いだろうに。
こういう世間と隔絶した感覚を持つのはどうしてだろうか。
良く居るのですよ、こういう輩が。
一度で良いから、こういう輩を殴ってみたい。きっと何も判らないだろうけれど。
芥川龍之介の自殺には興味がない。
あの当時は自殺が知的水準の高い人達の流行みたいになっていたからだ。
しかし、今の自殺は精神的に逃げる余地を無くした上での最後の逃避の為にする自殺が多い。
作家の甘え自殺とは訳が違う。一緒にしてくれるな。
そして、新聞媒体を使ってまで悲惨な自殺をした若い命を冒涜する、その神経を私は許す事が出来ない。
新聞報道の歪みの根幹を垣間見た気がする。
こういう歪んだ人間を生むマスコミという社会は一度精算したほうが良いだろう。
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http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1360297182/
http://mainichi.jp/opinion/news/20130205dde012070004000c.html
牧太郎の大きな声では言えないが…:自殺には「謎」が残る
毎日新聞 2013年02月05日 東京夕刊
悪口になるのか、褒め言葉になるのか、ともかく、毎日新聞社の大先輩の「遺書」について書きたい。
1919(大正8)年3月、海軍機関学校の教職を辞して、大阪毎日新聞社に入社した作家・芥川龍之介。新聞への寄稿が仕事で、出社の義務はなかったから「広告塔」的な存在だった。
1927年7月24日、大量の睡眠薬を飲んで自殺した。が、この大先輩の「遺書」には不満が残った。
遺書は6通。「妻への遺書」はあまりにも事務的だ。
一、生かす工夫絶対に無用。二、絶命後小穴君(親友の画家)に知らすべし。絶命前には小穴君を苦しめ并(あわ)せて世間を騒がす惧(おそ)れあり。三、絶命すまで来客には「暑さあたり」と披露すべし。(中略)六、この遺書は直ちに焼棄せよ。
妻に対する「感謝」も「恨み」もない。“命令調”である。
「わが子等(ら)に」には「人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず」とか「汝(なんじ)等の父は汝等を愛す」というカッコつけたクダリはあるが、その他の遺書にも、僕が期待した「自殺の深遠なる動機」は見つからない。
ベストセラー作家はなぜ、死を選んだのか? 知りたいのだが……ただ一カ所、長文の「遺書」の冒頭に「僕等人間は一事件の為(ため)に容易に自殺などするものではない」というクダリがあった。
さすがである。大記者・芥川龍之介を結局、褒めることになるが……人間が自らの死を選ぶ「動機」は一つではない!とスクープ?している。
自殺事件が起きると、昨今のメディアは「〓〓が原因!」と書きたがる。世間も「〓〓で死んだのね」と納得したい。でも「自殺の動機」を特定するのは簡単ではない。本人だって分からない。
例の大阪・桜宮高校のバスケットボール部員の自殺も、果たして「体罰」だけが原因だったのか?
己の高校生時代を思い出してみると(自殺まで思いつめたことはないけれど)出生の秘密を知り、親に対する嫌悪、担当教諭の“不正”への怒り、一向に上がらない学業成績、それに受験、性的コンプレックス……悩みはたくさんあった。
「体罰が原因で一人の生徒が自殺した。体罰が常態化した体育科の入試を中止せよ!」と革新的市長が声を大にするが……自殺には社会的背景に、個人の資質、個人の事情が入り交じる。自殺はいつも「謎」だ。(専門編集委員)
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