午後は伯備線~吉備線に乗り継いで“備中高松駅”へ。
毎年6月の第一日曜日の10:00から“宗治祭”が行われていて、今年で426年回忌になるのだそうです。
駅に降りても城跡へ行く手がかりがなく、小さな駅なので観光案内所もなく・・困って駅員さんに聞いてみると『右側線路沿いに歩いて遮断機のところに看板がでてるからそこを真っ直ぐ行くといいよ』と教えてもらった。
これだけの名所なのに駅に案内とかパンフがないなんて・・寂しい・・。
昼休み時間は窓口が閉まっているから観光に来たひとは路頭に迷う。ちょっと不親切だと思いました。
毛利征伐を命ぜられていた秀吉は欲しかった清水宗治の備中高松城を水攻めすることに成功し、毛利方の軍師安国寺恵瓊を呼び、城主である宗治の首を差し出すことを要求する。
大事な息子を宇喜田直家に誘拐されたときに毛利に助けてもらった恩をいつか返したいと思っていた宗治は恵瓊から話を聞くと首ひとつで城兵の命と毛利家存続につながるのであれば・・と快く承諾したという。
翌3日、光秀の使者である藤田傅八郎が秀吉軍に捕らえられ、持っていた密書により6月2日早暁、信長が光秀に討たれ本能寺が炎上した事を知る。
その情報が毛利方と宗治方に漏れぬよう策を講じ『今日中に和議を結べば5000の城兵の命と毛利の領地はとりあげぬ』、と急ぎ促せた。
翌4日、宗治と兄は四方を囲む敵と味方の前に船で漕ぎ出し舞いを舞った後、辞世の句を読み自刃した。
秀吉はこれを見届け、毛利軍が引き上げるのを見計らい、大急ぎで光秀成敗に向かった。
これが有名な“中国大返し”。
秀吉の天下人への出世街道の道程になるわけです。
5年ぐらい前に隣の市の市民館で“みすず”が上映されるということで観に行ったときロビーのケースに飾ってあった甲冑と年表や絵巻を見てその時はじめて宗治の菩提寺が市内のお寺にあることを知ったのでした。
『こんな身近にお殿様が?』と驚いたものです。
あと一日引き伸ばすことができたなら・・自刃せずにすんだかもしれませんね。
北条早雲の小田原城攻めでもそうだったように・・『あと一日』・・というのが運命のわかれみちなんでしょう。
秀吉は天下人になるために生まれてきたんでしょうね。
水攻めするのにタイミングよく雨が降ったり、光秀の使者が間違えて転がり込んできたり・・。
辞世の句碑。
橋をわたったところに首塚があります。
ワタクシが着いた頃には法事も終え、ひとの姿はなくテントだけ残っていました。
首塚の側へ行って手を合わせました。
目を開けると空から木漏れ日が差していて、お供えされた菊の花と周りに植えられたさつきの前で黒アゲハチョウが舞を舞ってました。
あんまり幻想的な風景だったのでしばらく見惚れていました。
この首塚の敷地の道路を隔てたところに「清鏡庵」という和菓子屋さんがあります。
ここに「水攻饅頭」という名前の和菓子が売られているのですが、このお菓子が“宗治祭”の茶席に並ぶそうです。無料でお抹茶とこのお饅頭が振舞われるとのこと。
水攻饅頭(5ヶ入り)¥400-(税別)
このお饅頭の包み紙は史跡地図になっていて城を中心に“東:秀吉軍”と“西:毛利軍”についた武将の陣跡図が銘記されています。
お店の方のちょっとしたプレゼントっていうことですね♪
このお祭りには宗治のゆかりのある方、親族、子孫が全国から集まってくるのだそうです。426年の間にどれだけの子孫が増えたのでしょうね?。
おもしろいですよね。そう考えると紀元後2000年弱のあいだ元を辿ることができたなら国民皆が遠い親族になるってことですから・・。
蓮の華が咲く頃はとても綺麗な姿をみせるのでしょう。
城跡というと石垣を連想しますがその姿はなく“水攻め遺跡”として残っています。400年の時を越えて地中から蓮が咲いたそうでそれを地元の人は“宗治蓮”と呼んでいるのだそうです。
地元の小学生が楽しそうに走りまわってました。
二の丸跡が資料館になっています。