・・・・・・・KAKUTAの桑原裕子さんのデエトブログがいずれは引っ越しするお部屋です。 -102ページ目

発火点、到着点。

先日購入した桐野夏生さんの対談集、「発火点」をゆっくりゆっくり読んでいる。
どの方との話も興味深く面白いのだが、柳美里さんとの対談にある、愛するということは恐怖と一体化すること、という話題のところは、思わず電車の中でも頷きながら読んでしまうほどに恐ろしく、同時に激しく共感した。
私は子供を持たないので、安易にわかるわかる、とは言えないのかも知れないが、しかし、自分の恐怖の中にある底なしの恐怖、その一部を、ハッキリと言葉で読んだ気がする。

昨日も今日も稽古だ。
気がつけば、毎日稽古、もうそんな時期なのか。
稽古の後、演助タムさんと今後のスケジュールの打ち合わせをしてから、みんなが中華屋にいるというので行ってみる。
ダイエット中なので…といいつつ、少しお裾分けしてもらったピータン粥がうまい。
みんなで、何となく今回はどんなことがやりたいか、などという話になった。
飲み会で芝居の話が白熱するのは時として不健康な場合もあるが、うちは本当に滅多に話さないので、昨日は貴重な機会だった。色々聞きたかったし、面白かった。
私も、何がやりたいだろう、と改めてまた、考えた。

演出の言われたことをただきちんとやるだけでは、稽古とはいえないよなあと改めて思う。
到着したい場所があり、最終的にそこにいければそれでいいのではなく、その過程こそが大事なのだというようなことを、一昨日青山とも言ってなかったか。
到着点へ、わかりきった流れとして辿り着くのではなく、うねりからまって、毎回、奇跡のように辿り着いてしまいましたという芝居を、つくりたい。
再演の場合、到着点がわかってると思い込んで、すぐそちらに行こうとしてしまうときがある。
わかりきった立ち位置、わかりきった心情、などという思い込み。芝居も進化していくもので、育っていくものだということを、忘れそうになる。
大事にしようとしすぎて、ただ守りに入るのはつまらんよね。
そんなことを夕べは客演陣にも教えてもらった気がした。

家族はもれなく妙なものなり

ブログって毎日書かないと当然ランキングが落ちるものだろうが、特に気にせず過ごしていてふと「ランクUP!」とかなってたりすると、いいんだよ教えてくれなくて。ほっといてクレよ。と思ったりする。
こないだ劇団員で飲んでいたら、馬場が「俺のブログは書けば書くほどランクが下がる」という。
そんなコトってあるのだろうか。
気の毒だから「読者になる」を押してみようかと思ったけれど、その顛末が気になるのでもう少し放置することにする。

さて、今日はお休みだったので、青山の出演するハイバイの「て」を観てきた。
お恥ずかしながら普段芝居を観に行くことが少なく(いや、行こうとは思ってるんです、常に)、こと自分の稽古中となるとまず行かなくなるのだけれど(いや、行きたいとは思ってるんです、常に)、最近になって「観たいと思ったものはちゃんと観に行こう」という私の中の小さな変革がありまして、行ってきたわけです。
先日「DIVER」を観に行ったばかりなので、迷わずに行けた。
え?駅前ですけど?と思われるでしょうけど、私は迷うんです。
スズナリも本多も未だに迷うんです。

対面客席なのでなんだか緊張。でも近くで観たいので前の方に座る。
舞台の向こう側に子猫がいるぞ、と思ったらグリングの豪さんだった。
相変わらず赤ちゃんみたい。
赤ちゃんに気を取られていてしばらく気づかなかったが、ウチの野澤さんもいた。
泣いたり笑ったりしてみていたが、同じく向かいで泣いたり笑ったりしている野澤さんと目があったらやだな、と一瞬邪念が走ったりする。
お芝居、素晴らしかった。
観ながら父のことを考え、母のことを考え、昨年末に他界した祖母のことを思った。

祖母の告別式を思い出した。
劇中でも告別式のエピソードがとても面白かったのだけど、悲しみに沈みたいのに「アレ…?」と思ってしまうコトって実際多いものだ。
祖母の告別式でも、やはり、お坊さんがお説教を聞かせてくれたのだが、恐ろしく退屈な地元話で濁され、「話すことないのかな」とボンヤリしたものだった。
お坊さんの話がつまらなすぎて、悲しむべきところで気が散っちゃったよと父に話したら「だから(気を散らすために)話すんだ」とよくわからない説明をされ、しかし確かにあの瞬間は悲しみが消えたわ、と妙に納得したりもした。
我が家は親戚に竹内まりやさんがいる。ので、告別式で祖母の棺を運び出すとき、最新アルバムのバラードがかかった。それはとても素敵だったのだけど、葬儀やさんがよもや間違えてハイテンポなご機嫌ソングを流してしまったらどうしようと余計なところでハラハラしたり、私は個人的に「天使のため息」を流して欲しいんだけどな…などと思ったりした。
焼香の最中も、いとこの彼氏が私より老けていることに衝撃を受けたり、参列してくれたウチの劇団員を「さすが一般人とは違う、華がある」と感心したり、なんだか祖母と関係ないことも色々思った。
だけど祖母が好きだった。だからもちろん、絶えず寂しくもあった。

芝居を観ながら、しみじみ、家族というのは妙なものだと思う。
妙でない家族はいるのだろうか、と考える。
きっといないのだろう。だから舞台を観て、気がつけば自分のことのように腹を立てたり、寂しくなったり、笑ったりしてしまうのだなあ。
いいものをみた。
青山よ、とっても幸せな現場にいるねえ。

待っているかも、が動かせる。

デエトブログの更新が滞っている。
…のは、おまけCDの原稿を書いていたからで。
そう、本日はKAKUTAが先行予約チケットのお客様にお届けしているおまけCD収録日でした。

と書くなら、収録現場の様子を捉えた写真の一枚でも載せるところなんだろうが、あいにく写真を取り忘れた。

なので、

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ニョイッ

パソコンの隙間から這い出す猫の写真。

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エクソシスト的に、グルン。

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デローン出てきすぎ!

以上、おまけCDと何の関係もない写真でした。
さてそんなおまC(略して)、聞いたことない人からしたら本当にどうせ内輪受けで録ってるんでしょ?と思われそうなしょぼそうな名前だけれど、聞いたことある人からすれば「まさかこんなに労力を注いでいたとは」と感心されること請け合いの気合い充分なCDなんデスよ。
で毎回、劇団員に書いてもらうコーナーもありつつ、一応全体を総括する構成台本は私が作ってるわけなんですが、PC原稿で27ページとかあったりして自分で衝撃を受けます。
毎度毎度、「何で台本書き終わったのに、またこんな苦しみを…?」と言うくらい、追い詰められて書いてんだ。
とはいえ、先行予約をしてくれるお客様しか通常は聞けないため、これもしかしたら、ある時突然「おまCもうやめねえ?」といったら特に支障なく終われてしまうんじゃないか、と思ったりもします。
が!が!
「楽しみにしてくれている人もきっといるはず」という一縷の願いにも似た想いが、私たちをやめさせないというわけです。
そうして夕べも一昨日も一人シコシコとさ、おまCに向けて替え歌作ったりして。
アア、私っていじらしい。などと一人で思ったりしてね。

でもさ、これってブログとかもそうなんじゃないかって思いますわね。
別に頼まれもせずやっているわけで、急に消失してもまあ、アラなくなっちゃったのね、くらいですんでしまうものかも知れないけれど、読んでる人もいるはず、もしかしてもしかしたら、楽しみにしている人もいるかもしんない…と思うと、軽い気持ちで始めたブログが、いつしか小さな使命になっていたりする人も多いんじゃないかしら。
しょこたんレベルまで行ったらそりゃもう、当然そうなんでしょうけど。

待ってる人などいないかも知れない。
でももしかしたら、いるかも知れない。
その「いるかも」が私を突き動かすの…オオオ~!(『水色の雨』の盛り上がり風に)

アラッ、そう考えたら、劇団というものにしたって、同じなのかも知れないわね。
やってくださいとお願いされたわけでもないのに始めて、楽しみにしている人がいるかも、という想いに突き動かされて続ける。
いくら好きなことを表現したい!と思って始めたところで、この「待ってる人がいるかも」がないと、なかなか続かないもんですわな。
やめてくださいと言われない限り、この「いるかも」にすがっていくの…オオオ~!

だからさ、ごくたまーに、ブログなんかでつまらん芝居を観た人が怒りまかせに「こんな劇団解散しろ」とか「やめちまえ」みたいに書く人いるじゃない?アレ、自分の劇団じゃなくても、猛烈に腹が立つね。
あんたそりゃ、交差点で通りすがりの人に「死ね」といわれてるようなもんだぜ、と。
死なないけどさ。
言われてもさ。

話が脱線しまくったけれど、今回のおまCもつまりは、気合いが入っていますよという話でした。
「甘い丘」なので、女たちが集合しているコーナーがいつもより多かったのだけど、女劇団員全員で「あること」をしたら、あんまりにあんまりで、久々によじれるほど笑った。

熱出して掃除

先日の稽古から調子が悪かったが、昨日今日にかけてずっと体がだるく、熱っぽい。
服を着ればすぐ汗が出てくるのだが、熱いからといって脱げば寒い。
冷房をつけてトレーナーを着るとちょうど良いという、よくわからん状態。
温度調整がうまくいかない。頭痛と腹痛。
稽古の序盤でこれではいかんと、今のうちに回復すべくお休みをもらった。

とはいえ一日寝ているわけにもいかず、休ませてもらったんで、という罪滅ぼしみたいな気分で仕事もする。フラフラしながら布団に戻り、ぼんやりDVDを観る。デスパ妻新シーズンは面白い。
さあ、観るものもなくなり、寝ようという段になって、どうしても寝付けない。
当たり前だ。一日中寝ていたんだから。
ふと、燃えるゴミを出す日だと言うことを思いだし、ゴミを整理し始めた。と、猫のトイレの掃除をしてなかったことを思い出し、今度は台所周りが散らかっていることが気になり、続いてトイレの排水溝を洗いたくなり、全身鏡の後ろに起きっぱなしだったアロマキャンドルを捨てたくなり……と、気がつけば脂汗を流して掃除をしていた。

ところで、台所のスポンジって皆さん、いくつ置いてます?
私んちは、金物系を洗う金属製のスポンジが一個、食器用が一個、シンク周りを洗うスポンジが一個と、計3個あるんですが、シンク周り用は食器用のお古を使う形。
食器用が汚れてくると「そろそろお前もシンク用だな」と思うわけだけど、スポンジにとってこれはランクダウンだと思うと、中学時代、別に好きでもなかったBAKUの「ぞうきん」という歌を思い出す。

僕の体はもうボロボロで後はぞうきんとして働くだけ~♪

そう考えると寂しい気持ちになり、
「よし、これからスポンジが食器用からシンク用になるときを「卒業」と呼ぼう」と考える。
キレイな食器ばかりを洗うスポンジはまだ小学生だ。健全でクリーンな日々を学ぶ。
しかし、シンク用の中学生になれば、世の中の汚ない部分も知らなくてはならない。すれて、汚れて、よれて、しかしまだ台所という家庭に守られている。
頑固な汚れは先生(金物用スポンジ)がやっつけてくれるので、ひとまず君は水垢に集中すればいいのだ。義務教育だ。
…朝方。スポンジの育成について考える私。
やはり、熱があるのだろう。

熱に浮かされてるからなのか、掃除するうちにかえってテンションが上がってきてしまい、いっそ「着てない服も捨てよう」とか「履かない靴も捨てよう」とごそごそタンスを漁る始末。
一年着ていない服は捨てろ、と何かで読んだのでその通りにすると、タンスがガラガラになってしまった。
着るかもナア、でも着ないかもナア、と残している服のなんと多いコトよ。
しかし、劇団をやっているとその「着ないかもナア」の服がふとした拍子に衣装として大活躍する場合もあるので侮れなかったりもするのだが。

ホコリをかぶっていた古い靴をゴッソリ捨てたら、靴棚がすかすかになり、寂しくなった。
卒業。ここでもまた、靴の育成を…考えたりはしなかったが。

燃やせるゴミを3袋、集積場に出してようやく一段落する。
ところで靴も「燃やせるゴミ」なんですね。神奈川の焼却炉は強力だ。
靴と服との別れに寂寥していたら、ようやく眠くなってきたのか、はたまた熱が上がってきたか、倒れるように寝てしまった。

風邪を引いているときに掃除をすると、意外にはかどります。
しかし風邪も一緒にはかどってしまうかもしれませんけど。

KAKUTA「甘い丘」演出日記1

…と銘打って、KAKUTA版も演出日記を書いてみようかという気もするが、いくつかの理由がありおそらく序盤で頓挫するであろうと予測できる。

1/役者が凹む
その日の稽古をこんなとこ出振り返られてたらいやだろうね。
2/私が追っつかない
KAKUTAじゃ私も出るわけで、そのうち自分の役のことも考えると手一杯になる。
3/仕事が一杯
これが一番の理由。そんな暇があったら…という、声が聞こえる。

なので、三日坊主的に。

9月某日。(つうか今日)
久々にKAKUTA稽古が再開。再開初日というのに、体が異様に重く、だるい。
PMSのせいもあるが、風邪かも知れない。というのは本読み中、ヤケに咳が止まらずそう思ったことで。
電車に乗っているときから手がじんじんと熱く、瞼がどろんと重かった。気をつけよう。

北九州から帰っての本読み。
9Rの時の印象と比べながら聞いてしまうかと思ったが、台本直しのため初演のDVDも観ていたのでさほど引きずられてはおらず。それに、やっぱりKAKUTA版はまた全然違うもんである。
9月はじめの本読みで話したことを皆気にしながら読んでいるので、また面白くなっていた。
椿さんの弱々しい喋りが面白い。コミカルなシーンも、マジであればあるほど面白い。
ここは変に受けなど狙わずやってもらった方が良いと再確認。
むしろ、本を読みながら既に鼻を垂らして泣いている椿さんの真面目さが、役を引き立たせている。
三谷サトッコは、意識的に女っぷりを上げて読んでいるが、それが上滑っている感じがむしろ面白い。
「実際、アタシもこんな声出すの、つかれんのヨ」とでも言ってるかのようで、その荒んだ感じがはまっている。
なんとなくだが皆初演の音を憶えているだけに、それがキャラ作りをしやすくさせてる面もあれば、逆に大事な台詞を流してしまうこともある。
既に確立したキャラを初演で作った女子たちは、しかし初演は見逃していた台詞などにも注目してもらいたい。意外と、流して言っていた台詞に面白味が隠れていたりする。奈央子の役なんかは、特にそうだと思う。まだまだ遊びがいがある。
とか何とか冷静に書きつつ、私は私で自分の役に試行錯誤した。
単に音だけを追っていないか、自問しながら読んだ。しかし相手役が素晴らしく遊び心に満ちているので、一緒にまた新しい場所へ行けそうな気がする。

稽古の前、中村うさぎの「私という病」を読む。

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デリヘルへ行った著者の体験記…かと思ったら、体験談は序盤だけで、後はなぜ著者がこのような冒険に繰り出そうと思ったか、ということについて内的に探求している様子を切々と綴ってある。
なるほど、それで「私という病」なのか。
正直、47歳でデリヘルをしてみようと思った著者の、実際に体験して感じたこと、その質感や匂いも含め、生々しいルポをもう少し読みたかったという感じはある。
デリヘルとはいかような場所なのか。どんな人がいるのか。それを、急に飛び込んでいった著者の目で語って欲しかった。
彼女ならではの見え方があると思うからだ。

が、女として求められたい、その渇望、同時に抱える男への嫌悪感、恐怖。そうした内なる叫びはデリヘル体験以上に生々しく、血みどろに描かれてある。
そこへ私は、心底恐ろしく震撼したり、同時に激しく共感したりもした。
私から見れば大冒険であるそのことに挑んだ著者の心情は、意外にも遠い場所にはなく、肩を抱き、その気持ちわかるう!などと手を取り、共に生理の血の海にバチャンと浸かるような気分にさせられる。
年は全然違うのだが、女の共鳴なのかもしれぬ。

デリヘルへ行くことにした彼女の心情のなかで、とても好きな一行があった。
「欲望のためでもなく、金のためでもなく、世にも阿呆な女の意地のために」
そう、そうなのだなあ、と、素直に納得する。
世にも阿呆な女の意地。良い言葉だと思った。