昭和10年、予科練習生に採用され横須賀海軍航空隊に入隊した本書著者の高橋氏。

飛行機搭乗員の基礎教育を受け昭和13年に予科練を卒業し霞ヶ浦海軍航空隊水上機班へ配属。

水上偵察機パイロットとして1年間の飛行訓練後、重巡「熊野」への乗り組みが命じられ、敵艦と「熊野」の中間を飛び観測機を使い敵味方の距離と方向を測定し報告をする魚雷戦観測員へ配置となりました。

その後重巡「利根」へ配属となり、北部仏印進駐、真珠湾攻撃、ウェーキ島攻略戦、ビスマルク諸島攻略作戦、ポートダーウィン攻撃作戦、ジャワ島攻略戦、セイロン島空襲など多くの作戦に参加。


昭和18年、アフリカ大陸とマダガスカル島の間のモザンビーク海峡方面での作戦を終え、シンガポール・ペナン島の軍港に繋留されている潜水艦「伊三七潜」に搭載された水上偵察機要員となり、「伊三七潜」によるインド洋での通商破壊に合わせアフリカ沿岸の偵察飛行に従事し、アフリカ大陸から400㎞沖のマダガスカル島のディエゴ・スアレス(現在のアンツィラナナ)やアフリカ東岸(現在のケニア共和国)のモンバサの強行偵察を行いました。
インド洋では日本軍と共にドイツの「Uボート」も通商破壊活動を行っており、ペナン島の軍港に繋留されていた「Uボート」の乗員との交流もあったようです。


昭和19年8月、横須賀海軍航空隊に配属となり、第二次世界大戦中最大の大きさを誇る潜水艦「伊400型潜水艦」 に搭載される特殊攻撃機「晴嵐」の操縦士となり、試験飛行や魚雷発射試験などを行います。


「晴嵐」はフロートを外し、主翼・水平尾翼・垂直尾翼を折りたたみ潜水艦の飛行機格納筒へ収納されているため、発進するには母艦が浮上し無防備状態で発進作業をしなければならず、敵に発見され易く非常に危険が伴いました。

そのため発進時の作業時間を短縮し発見される危険を少なくするように、ピン1本の差込で主翼を固定できるようにし、暖機運転を省くために前もって温めておいたエンジンオイルを注入できるようにするなどの工夫がされていました。

更に搭乗員・整備員の訓練を行い、20分以上かかっていた発進作業を10数分で3機発進できるようになったといいいます。


高橋氏は第631海軍航空隊に配属となりパナマ運河への特別攻撃が計画されますが、戦局の悪化でパナマ運河攻撃は中止、その後計画されたウルシー泊地への特別攻撃も終戦により中止となり内地へ帰還できました。


日米開戦前から終戦まで多くの作戦に参加し、2度の特攻作戦を免れた水上偵察機搭乗員の手記。


内容(「BOOK」データベースより)


海底空母「伊400潜」に乗り組んだ特殊攻撃機1番機操縦士の驚愕の真相。第6期予科練習生160名、戦死者124名―14歳で海軍に入り、厳しい“海軍少年航空兵”教育に耐え抜き、“ゲタバキ機”を駆って戦いつづけた不屈の男の太平洋海空戦記。



神龍特別攻撃隊―潜水空母搭載「晴嵐」操縦員の手記/高橋一雄/光人社

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