対米英開戦1年前の昭和15年11月、

海軍軍令部は、「部内部外に秘密を保ちつつ、落下傘降下法、兵器携行降下法、およびこれに関連する落下傘、 兵器、需品等、落下傘部隊編成上必要な基礎実験を昭和16年3月上旬までに至急完成し、その資料を提出すべし」と通達を出しました。


当時の海軍では落下傘による空挺作戦の研究はされておらず、航空機搭乗員用の落下傘はありましたが空挺用の落下傘は無く、あるものと言えば航空機から脱出し命拾いをした搭乗員の体験談と、ソ連の落下傘降下に関するたった1冊の翻訳書だけでした。


そんな状況のなか、海軍落下傘部隊創設のための海軍大臣命令を受けた本書著者・山辺氏を中心に26名のテストパラシューターにより、「第一〇〇一実験」として極秘の降下研究が始まりました。

ダミー人形を使った落下開傘実験、ブランコを使った飛び出し訓練、落下傘降下や着陸に適応した体作りのためのデンマーク式体操を続け、研究開始から2か月後、山辺氏は最初の有人降下実験を行いました。


山辺氏による初めての有人降下実験は成功し、危ない場面もありましたが他の25名も無事降下実験を終了し、その後落下傘の改良と集団降下の研究、銃の携行降下法の研究を重ね、それぞれ750名の降下員を擁する横須賀鎮守府第一特別陸戦隊(堀内部隊)、横須賀鎮守府第三特別陸戦隊(福見部隊)の2部隊が編成されました。
 
敵トーチカ30メートル直前に降下してしまい、多くの犠牲を出しながらも飛行場を確保したセレベス島のメナド降下作戦。


降下地点へは無血降下できたものの、目標のクーパン飛行場への途中のジャングルで、苦戦したチモール島のクーパン降下作戦。


戦況の悪化で飛行機による輸送が不可能になり潜水艦で逆上陸し玉砕したサイパン戦。


三十機の一式陸攻を掻き集め、サイパン・テニヤン・グァム島のB29の焼討ちを計画するも、作戦決行日の7月14日に敵機動部隊の空襲を受け、輸送機が破壊されたため作戦延期になりそのまま終戦となった幻の作戦、剣作戦。


陸軍落下傘部隊(挺身連隊)と共に「空の神兵」と言われた海軍落下傘部隊の創設から終戦までの歴史を綴った1冊。



海軍落下傘部隊―栄光と苦闘の戦歴 (太平洋戦争ノンフィクション)/山辺 雅男/今日の話題社

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