現在でも情勢が不安定で誘拐事件などが発生しているフィリピン・ホロ島。


戦時中、日本軍の守備隊6000名が駐留していましたが、米軍の攻撃とモロの襲撃で惨殺され、生還したのは3名の将校を含め僅か80名というものでした。

生還した将校3名のうちの1人、本書著者の井上氏は司令部付きの将校で、常に司令部と共に行動しており、残忍なモロに追われながら戦没した旅団長 鈴木鉄三少将の最後の様子を詳しく記しています。



「司令官鈴木閣下も大分弱って来て、遂に歩けなくなった。

全兵団の兵員の士気にも影響するので、幾ら指揮命令が出来なくなっても、其処に置いて行く訳には行かない。

小枝を切って担架を作り、司令官を乗せて、兵隊さんが四人がかりで担いで進んだが、閣下は小柄で軽量だったけれども、それでも担いでいる兵隊さんもフラフラに弱っていたので、木枝に担架を引掛けたり、転んだりでどうにもならない。

そこで何とか驢馬を見付けて来て、之に司令官を縛りつけて運んだ。

何分にも急坂や谷や崖と揺りたくられるので、司令官もぐったりとなって了った。

死んだ様になっているので軍医に尋ねたら、馬から下ろして、上向きに寝かせて溝落の辺を指で突いて見て、欠伸をする様だったらまだ生きている。

欠伸をしないと死んでいると言うのだ。そうやって見たら欠伸をしたので、又驢馬に乗せて行進した。暫くして司令官が首を垂れてぐったりとしているので、又馬から下して指で突いて見たが、今度は欠伸が出なかった。

水の無い谷底だったが、茲で司令官鈴木閣下は死亡された。せめて埋葬だけでもして上げたかったけれども、モロ族に追われている時だったので其儘、其所らに寝かせて、成仏を祈りつつ谷を登って行った。

若し状況、緩にして余裕あらば、穴を掘って埋葬し、司令部だけでも整列して、ラッパ一声、捧げ筒して、黙祷を捧げるべきであろうが、追い捲くられている日本軍敗残兵は逃げるのみだった。」


以上本文より



戦没した司令官を埋葬することもできず、敗残兵として逃げるしかなかったホロ島守備隊。

「敗残の記―玉砕地ホロ島の記録」 の著者、藤岡 明義氏と同じホロ島へ派遣された海軍主計少佐 井上武男氏の手記。



内容(「MARC」データベースより)


太平洋戦争の一戦地ホロ島守備兵6000人の生き残り81名の一人である著者の手記。激戦の地獄絵図の体験者が真実の戦争を伝える。


運命の岐路―玉砕のホロ島は獰猛なモロ族の棲む南海の孤島であった/井上 武男/日本図書

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